知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか

 

「ヤポンスカはサムライ魂を持っているんだ」

阪神大震災の孤児たちをポーランドに呼ぼうと働きかけた中心人物は、外交官スタニスワフ・フィリペック氏である。フィリペック氏はポーランド科学アカデミーの物理学教授だったが、ワルシャワ大学で日本語を学び、東京工業大学に留学した経験もあった。

フィリペック氏のお父さんは、第2次大戦中、ドイツ占領下のポーランドでレジスタンス活動に従事していたが、氏が3歳の時にゲシュタポ(ナチス・ドイツ秘密警察)に捕まって強制収容所に送られ、還らぬ人となった。その後、氏はおばあさんに育てられたが、よくこう聞かされた。

お父さんのように強くなりたかったら、ジジュツ(柔術)をやりなさい。ヤポンスカ(日本)に伝わるレスリングよ。ヨーロッパの果て、そのまた果てのシベリアのむこうにね、ヤポンスカという東洋の小さな島国があるの。その小さな国が、大きくて強いロシアと戦争をして、やっつけたんだもの。ジジュツのせいかどうかはしらないけど、ヤポンスカはサムライの国でね、サムライ魂を持っているんだ。

 

小さなヤポンスカがロシアを負かしたことは、私たちポーランド人の希望になったんだ。わたしたちもヤポンスカのように、ロシアや、ドイツや、オーストリアを負かして追い払い、自由をとり返して、独立できると信ずることができた。そしてそのとおり、第一次大戦のあとで、ポーランドは独立できたんだよ。
(『日本のみなさん やさしさをありがとう』手島悠介・著/講談社)

おばあさんは幼いフィリペック氏に、ヤポンスカがポーランド人捕虜を親切に扱ったことや大勢のポーランド孤児をシベリアから救出したことを語って聞かせたという。これが機縁となって、氏は日本語を学び、両国の友好のために働こうと決意したのである。

「日本のヘイタイサンは、やさしかった。」

ポーランド人は独立を求めて、何度もロシアに対して武装蜂起を繰り返した。そのたびに失敗しては、捕らえられた者はシベリアに「流刑囚」として流されて、強制労働をさせられた。1863年から翌年にかけての「一月蜂起」では8万人もの流刑囚がシベリア送りとなった。その後を追って、恋人や家族がシベリアに行った。そのためにシベリアには何十万人ものポーランド人がいたのである。そしてそこで多くの子供たちが生まれた。

1818年、ロシア革命が勃発すると、シベリアのポーランド人たちは祖国独立の一助になろうとチューマ司令官のもとに2,000名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立したロシア提督・コルチャークを助けて赤軍と戦った。しかし、その試みは失敗し、ポーランド人部隊はウラジオストックに追い込まれた。

この時に立ち往生していたポーランド人部隊を救出し、大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けたのが日本であった。日本はソビエト革命政権の成立を阻止しようとして、米英仏などと共にシベリアに出兵していたのである。

赤軍は武装蜂起したポーランド人たちを見つけ次第、殺そうとした。ポーランド人たちは着のみ着のまま、東へ東へと逃げ、その混乱の最中に多くの子供が親を失った。孤児の一人で後に日本に助けられたバツワフ・ダニレビッチ氏は当時の状況をこう語っている。

街には、飢えた子どもがあふれていましたね。その子たちは、日本のヘイタイサンを見ると、「ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!」と、せがむのです。日本のヘイタイサンは、やさしかった。わたしも、キャラメルをもらったことがあります。孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子どももいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした。
(『日本のみなさん やさしさをありがとう』手島悠介・著/講談社)

print
いま読まれてます

  • 知られざる親日国。なぜポーランドの人々は日本に感謝し続けるのか
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け