インドを1年半かけて歩いた男が、唯一警察に通報したチキンカレー事件

Dmitry Kalinovsky/Shutterstock
 

最初のころはこれも異国の旅の一興と、食べる手を休めて丁寧に答えていたが、毎日毎日昼めしどきにテーブルを囲まれて同じような質問を浴びせられるとさすがにムカツイてきた。

そのうち質問が要望にエスカレートして、日本の女を世話しろだとか、不法入国の手引きをしてくれだとか、白い布で包んだ5キロほどの荷物を持ってきて、帰国時に神戸の知り合いへ届けてくれとか、おまえら、インドの片田舎の食堂でカレー定食を食っているだけの一外国人旅行者をプロの便利屋扱いするんじゃねえよ、と怒鳴りたくなることもしばしばだ。

一服すると、こうやってワラワラ人が集まる。シーク教徒の多いパンジャブ州で

一服すると、こうやってワラワラ人が集まる。シーク教徒の多いパンジャブ州で

そんな暑くて辛くてしつこいインドを辛抱に辛抱を重ねて歩くこと約1ヶ月、パンジャブ州、ハリヤナ州経由で504キロを歩いてようやく首都のニューデリーに到着した。しかしその間に僕の精神バランスは徐々に均衡を失い、ついにニューデリーのカレー屋で大爆発してしまう。

暑くて歩く気も失せてしまい、その日は朝から徒歩旅行をサボって宿の部屋を一歩も出ずに読書に耽っていた。当時はインターネットなどという便利なものも普及しておらず、インドがイヤでイヤでたまらんのにインドにいなければならない人間としては、日本語の本を読み耽る以外、逃避手段がなかったのだ。

できることならインド人の顔を見たくもないが、朝からなにも食べていないのだから腹が減ってしょうがない。夕方、宿の近所の食堂へと向かう。

道路に面した入口のドアは全開で、店内は会議室のように奥の厨房に向かって4、5人が横1列に座れる木製長テーブルと長椅子が5列ほど並んでいた。

適当な席に着いて周囲のオッサン客が頬張るカレーを眺めると、チキンカレー定食が圧倒的人気を誇っている。水っぽいルーの中にチキンの骨付きモモ肉が1本、デーンと存在感を誇示するように寝そべっている。食いごたえがありそうで、迷わずチキンカレー定食を注文した。お代は25ルピー、日本円換算で75円。まあ庶民向け食堂での相場の値段である。

食堂でカレー定食。「手食」での一口大の量かげんがむずかしい

食堂でカレー定食。「手食」での一口大の量かげんがむずかしい

ふくらはぎと二の腕を何ヶ所か蚊にかまれつつ待つこと5、6分、空腹感も極まったころにようやくチキンカレー定食が長テーブル上に運ばれてきた。さっそく右手でルーに浸るモモ肉を引きちぎろうとつまみ上げ、たまげて心中叫んだ。

「こ、これはモモ肉じゃない、手羽先だ!」

慌てて両隣のオッサン客の皿を再確認すると、やっぱりモモ肉。僕のだけ、手羽先なんである。なぜだ!もしかすると厨房でモモ肉と手羽先とを間違えて僕の皿に盛ってしまったのか。断っておくが、決して手羽先が嫌いではない。手羽先のから揚げ、ビールのつまみにあんなにぴったりのものはない。しかしすでにモモ肉を食べるということを、空腹感でいっぱいいっぱいの脳みそにすり込んでしまった以上、手羽先では困るのだ。それにもし百歩譲って手羽先ならば、2本ぐらい入ってないと量的にモモ肉と釣合いがとれないだろう。

独りよがりにそう判断して、僕は店員を呼んだ。1ヶ月間のインド滞在で数字や挨拶程度のヒンディー語はどうにかなったが、「モモ肉」や「手羽先」はなんていうのだろう。わかんらんが、とりあえず自分の手羽先とまわりの客のモモ肉を交互に指差して、若い店員の男に態度でゴネてみる。日本語でゴネてみる。

どうもいいたいことが伝わらない。そうこうするうち厨房からカタコトの英語を話す料理人が出てきたので英語で事情を訴えたところ、彼は平然とこう言い放った。

「ウチのチキンカレー定食は、モモ肉も手羽先も同じ25ルピー(75円)です」

僕はキレた。インド入国以来1ヶ月間、我慢に我慢を重ねてきた「暑い・辛い・しつこい」のインド辟易3点セットにすでにぐらついていた精神状態の均衡は、このひとことで完全に崩れてしまったのだ。

「なにーっ! モモ肉と手羽先がおんなじ料金だあ!んなわけないだろうが。モモ肉と手羽先だぞ。モモ肉1本と手羽先1本だぞ。モモ肉に交換しろ!」
「すいません。モモ肉は売り切れで、手羽先しかありません」
「手羽先しかない? それなら2本入れるか、値段をまけろ!」
「いや、それはできない。ウチはいつもモモ肉と手羽先を同じ値段で出している」
「そうか、どうしてもこっちの要求を聞かないのか」
「無理だ!」

料理人は僕の要求が不当だと感じているようで、態度が硬化してきたのがわかった。周囲の客も、カレーを右の掌に握ったまま身じろぎもせず、どうなることかとこっちの様子を眺めている。冷静であればこの光景はかなり恥ずかしい見世物だが、1ヶ月間溜まりに溜まった僕の怒りは羞恥心をかなぐり捨てさせていた。ふと開け放たれた出入口から外を眺める。道路の向こう側に公衆電話が見えた瞬間、腹が決まった。

「よし、それなら警察を呼ぶぞ!」

「警察?なんで?あーもうこの○?□△め!勝手に呼べ呼べ!」

○?□△は聞き取れなかったけれど、どうせアホとかバカとかのヒンディー語だろう。

print
いま読まれてます

  • インドを1年半かけて歩いた男が、唯一警察に通報したチキンカレー事件
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け