台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた

 

外人の鼻を明かせてみろ

大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工事事務所の所長として、現場に住み込んで指揮をとり始めた。当時、現場で働いていた李新福という人は次のように語っている。

とにかく気宇壮大な、当時ではとてつもない大きな工事でした。それと、みんながいちばん驚いたのは、見たことも聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役でした。ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現場では蒸気の機関車にひかれたエアーダンプカーに乗ったものです。

スチームショベルはひとすくい2立方メートルで、これは人間1人が2時間かかって掘り出す土砂の量である。その外にも、蒸気機関車エアーダンプカーなど、八田が買い付けた機械は、1,000トンを超える。

始めのうちは、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、使い方が分からない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、現場の人間には一切、使い方を教えなかったという。八田は、「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のように言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械がうなりをあげて、土砂を運ぶようになっていった。

現場には作業員やその家族2,000人が住みついた。学校や病院までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くまでこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたという。

「仲間を失った」

12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事でガス爆発事故が起こった。90メートル掘り進んだ所で石油が噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して爆発したのである。日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出た。

八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲者の遺族のお見舞いに奔走した。八田がいつもの作業着姿で犠牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したという。八田の「仲間を失ったという悲しみが自然と伝わり、その心情が遺族の胸をうった。

工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人たちは、

八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているおやじがいるんだ。おれたちだってへこたれるものか」

と、逆に八田を励ました。

八田は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事のために亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混じって刻まれている。こんな所にも、八田の分け隔てのない仲間意識が伺われる。

ダム完成

翌12年9月、関東大震災が起こった。死者10万余、全壊家屋12万8,000という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30%を復興支援の財政援助を申し出た。その結果、烏山頭ダム工事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解雇せざるをえない事態に追い込まれた。

3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは、八田にとって身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔走した。見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して再雇用するという条件をつけたという。嘉南の人々に今も語り継がれているエピソードである。

このような危機を乗り越えて、工事が完成したのは、昭和5(1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い年月が流れていた。1億5,000万トンの水を入れるのに、直径9メートル近いトンネルでも、40日あまりかかった。

5月10日から満々と水をたたえた烏山頭ダムの竣工を祝う祝賀会が3日間に渡って開かれた。地元民が招待客3,000人を超えて集まったため、会場をもう1カ所増設して収容した。屋台や特設の芝居舞台がにぎわい、花火が打ち上げられ、夜は提灯行列まで繰り出された。

アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。

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