「こうすべき」「こうしなければならない」「こうするのが常識」という発想を捨てていく
僕たちは、これほど便利で豊かな社会に生きているといのに、なぜ生きづらく感じてしまうのでしょうか。
その理由のひとつは、自分自身が考えている「こうあるべき」「これをしてはいけない」という思い込みに縛られているからです。
特に「いい人」ほど、社会の手本になるような、模範的な「あるべき論」「してはならない論」を強く持っています。
たとえば、男らしくあるべき、女らしくあるべき。そういう発想が自分の行動を縛り、自分の思い通りに振る舞えない。
でもそれは、他人から強制されたものというよりも、子どものころから刷り込まれた、見えない社会からの要請(という思い込み)にすぎません。
他人はあなたをそんなに見ていないのに、「こう思われたらどうしよう」という恐怖感に襲われ、自分が信じる「べき論」をかたくなに守ろうとする。
口には出さなくても、子どもの面倒は女性がすべき、家事も女性がするものだ、と思っている人は少なくないでしょう。
だから女性は自分が働いていても、家事や子育ても両立させようとして疲弊します。
でも家族の在り方はそれぞれなので、自分たちがもっとも快適で幸せな役割分担をすればいいだけのこと。
手を抜くことが悪いわけではなく、他人からどうこう言われる筋合いのものでもないはず。
しかし、多くの女性は家事育児の手を抜くことに罪悪感を覚えます。
「自分は悪いんだ」と自分を責めます。
あるいは友達が多くあるべきだ、友達は大事にすべきだ、みんなの仲間に入るべきだ、というのもやはり、子どものころから刷り込まれた思い込みです。
だから、一人でいるところを見られたら「あの人は友達がいない、寂しい人なんだ」と周りから思われるのではないかと恐れ、恥ずかしいと感じる。
しかし友達が少なく、仲間と呼べる人がいないことが、そんなに不幸なことなのか。
孤独でいることが、そんなに悪いことなのかというと、全然不幸でも悪いことでもありません。
なぜなら、友達がいなくても人生を楽しんでいる人は大勢いるからです。
たとえば創業経営者には、「友達なんていない」という人は少なくありません。
しかし自分の中に「友達がいないのは人格に問題があるはずだ」という思い込みがあり、友達がいない自分を責めてしまう。心苦しくなってしまう。
ほかにも、「同じ服を続けて着ることは恥ずかしい」という思い込みがあるから、毎日着ていく服に迷う。
でも、朝に同僚から「あら、昨日と同じ服ね」と言われるだけで終わり。
その次の日には誰も覚えていないし、あなたの仕事には何も影響はない。
「大学に行っていない人間は落ちこぼれだ」という思い込みがあるから、高卒の自分にコンプレックスを感じる。
でも、社会に出れば、学歴よりも問われるのは実力。
それに人生80年の中の、18歳の春という一瞬のタイミングのテストの点数だけで、人間全体を判断できるはずもありません。
本当は誰も気にしていないこと、どうでもいいこと、昔はそうだったかもしれないが現在はそうでもないことでも、自分の中に「こうあるべき」と思っているものがあり、それが自分を縛るプレッシャーや悩みとなっています。
もちろん、それが良い意味でのプライドとなり、前向きな努力につながるのであれば問題ないと思います。
たとえば逆境にぶつかったとき、くじけそうになったとき、「オレはこういう場面でこそ、燃える男だったはずだ」と自分を奮い立たせる原動力になる、といったことです。
しかし逆に、生きづらさや息苦しさ、人生への敗北感、未来に対して希望が持てないといった挫折感を感じている人は、自分の行動のよりどころとしている「こうあるべき」というのが、本当に大切で、自分の人生をより楽しくしてくれる合理的なものであるかを、振り返ってみることです。
そして、そういった根拠のない「べき」を捨てていく。
たとえば僕の例で言えば、「起業したら上場を目指すべきだ」「雇用を作り出すのが経営者の責任だ」「自分の代で終わるような事業は寂しい」「会社を潰すのは良くないこと」といった「べき」があり、それが自分を悩ませていました。
なぜなら僕には、人を育て、組織を拡大するような資質も欲望もなかったからです。
当時は自分に無理をして、自分に言い聞かせて、自分に合わない方向を追及していました。
しかしそういった枷を外した今、僕の心も身体もともに軽く、自由になれました。
今は毎日がとても楽しく、夜は充実した気分で眠り、朝はワクワク感で目が覚めます。