豊臣家の夢の跡。京都に日本一大きな大仏があった事を知っていますか

 

秀吉の死後、間もなく大仏は今度は火災によって焼失します。その後、徳川家康は、豊臣家の財産を使い果たさせるために、秀吉の子・秀頼に大仏の再建を薦めました。秀頼は家康の薦めに応じて再建を行います。そして、大仏殿の総仕上げとして鐘が造られました。その銘文に「国家安康」と「君臣豊楽」という2つの言葉がありました。この言葉を見て、徳川家康の側近、金地院崇伝(こんちいんすうでん)が言いがかりをつけます。「これは家康を呪う言葉と豊臣の繁栄を願う言葉である」と豊臣家に忠告したのです。

この金の銘文がきっかけとなって大阪冬の陣が始まります。そして、翌年の大坂夏の陣で豊臣家は滅びてしまいました。秀吉が造った大仏が息子・秀頼の代に豊臣家滅亡のきっかけとなってしまったのです。とても皮肉な結末ですが、それも運命なのでしょう。

その後、大仏は豊臣家の滅亡後も京都に残っていました。しかし、この大仏には不運なことが度々起こります。江戸時代初期、1662年に、再び京都に地震が起こり大仏は崩壊します。この時崩壊した大仏に使われていた金銅は鋳つぶされて銅銭にされました。そして、今度は木造の大仏が造られたのです。この時に造られた大仏も落雷によって焼失を繰り返しました。しかし、この大仏も昭和48年に火災によって焼失し、それ以降再建はされていません。

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