リサイクル運動が、いかに「しょうもない偽善」かを説明しよう

 

第二に、だからリサイクルというのは論理が飛躍しすぎています。ゴミの山を処理するには、埋め立てか焼却がもっとも簡単なことは、自宅のゴミを考えてもすぐわかります。ゴミをリサイクルできると考えている人は、ゴミをよく見ていないかゴミの中の特定のもの(たとえば綺麗なまま捨てられる紙、まだ使えそうなプラスチック容器など)だけを見ている場合があります。

でも、ゴミ処理というのはゴミの10分の1だけを処理してもダメで、ほとんどのゴミをリサイクルして有効に使うか、全部焼却するかの2つしかないとしても良いのです。ところが、自分のところからでるゴミをよく見てみると、台所からのゴミはベチャベチャしている上にすぐ腐敗するのでその中から有用なものだけ取り出すのは不可能です。

また、台所からのゴミを焼却するには、紙かプラスチックのように燃えやすいものが一緒でなければ実際に実施できません。かくして、もし利用するにしても「ほぼ新品のまま、種類が少なく、再利用しても使ってくれる人がいる」というものだけがリサイクルできますが、現実にはよほど「ポイ捨て」社会でなければそんなゴミはないのです。

また、この文で間違っているのは、もともと白人の世界は土に埋める文化で、乾燥した風土であることもあり焼却はほとんどしませんでした。それに対して日本は湿気があるので衛生上、「焼く文化」でした。日本は江戸時代の前も「リサイクル」というのはなく、物が欠乏していたので、大切に何度も使うことが行われていました。

たとえば反物で作った和服は、大人の次は子供に回し、それから手ぬぐい、最後は雑巾というように「下位の用途にまわす」ということで、これは「再利用ではありません。そして現代は、子供は子供服、タオルはタオルを使い、洋服のお古を切り取ってタオルとして使っている家庭はほとんどありません。

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