なぜ、神道小学校の理念は間違いなのか。誤解された明治時代の教育

 

摩訶止観

日本の武道の精神修養は、天台宗の摩訶止観の常行三昧から出ている。摩訶止観には、夢想の境地に達する方法として、常座三昧(座禅)、半座半行三昧(称名念仏)、常行三昧(繰り返しの運動)の3つの方法があると教えている。称名念仏として、日蓮宗と浄土真宗が出てくるし、常行三昧としては天理教が出てくる。しかし、常行三昧は、武道に大きな影響を与えた。

この摩訶止観の三昧がやっと脳科学でも評価されて、マインドフルネスと健康に良いことであると世界的な権威が推奨し始めている。

そのマインドフルネス自体を、日本ではいろいろな実験を重ねて、座禅や念仏や武道などと多種多様な精神修養にしているのである。

そして、江戸時代の武士であった鈴木正三が農民になり、農業も繰り返しの作業で、武道の精神修養であるから仏行であるとした。それを石田梅岩が商業も工業も繰り返しの作業であり、論語の精神で行えば、正しい行いであり、その労働から得る利潤も正しいと石門心学で教えた。この石門心学が二宮尊徳や松下幸之助の哲学に発展する。

このため、日本の仕事は精神修行となり、サラリーマン道やラーメン道などと精神修行としたのであるが、この思想も徐々に論語と石門心学が廃れて、西洋の合理主義が幅をきかせてきて、仕事を悪と考えはじめている。そうしないとプレミアム・フライデーなどということが出てこない。

日本では残虐な事件が少ない原因はこの精神修養のためであると思われる。それも多くの人がサラリーマンになり、サラリーマン道という修行をしているからである。

しかし現在、仕事は自発性のものであり、強制されて行うことではなく自分の考えで行うことであるという精神修行性を放棄して、欧米と同じような命令や強制が強くなっていることで、昔の仕事とは違うことになっているのであろう。

それが日本の良さを放棄しているように感じる。ブラック企業の根本は、社長が論語や石門心学を学んでいないことによるようだ。仕事を精神修養にしたほうが成績が上がるということを知らないようである。もちろん、数値化や作業の学習方法はある程度文書化して見える化したほうが良いが、全てを見える化できないので、精神修養的な部分も残すことである。それを各個人の工夫という。

MBAなどに日本企業が出てくるが、その根本は、仕事を修行として行うことで、製品に魂が乗り移ることであると思う。そして、作業所をキレイにするという行動もそこから出てくる。しかし、仕事を修行とはMBAでは言わない。宗教的な色彩を拒否しているからで、そのため、仕事場をキレイにするという現象を説明することになるが、それでは不足している。このため、本当に仕事ができるのが日本人しかいないことになる。

このため、日本企業は日本人を世界に送り、作業指導をすることになる。仕事は修行という精神修養であると自社社員だけに伝えるためである。

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