捕虜のドイツ兵たちを感涙させた徳島県「板東俘虜収容所」の奇跡

 

「彼らも、祖国のために戦ったのです」

陸軍省からの呼び出しで、松江は東京に赴いた。そこでは俘虜情報局の将校たちが待ちかまえていた。局長の多田少将が、苛立ったような声をあげた。

君は捕虜たちからの評判もいいようだが、甘やかせば評判のいいのは当たり前でね。あとで必ずしっぺ返しを食う。陸軍省からの通達だ。板東収容所については、来月から予算を削ることになった。

「なんですと!? 理由はなんですかッ!?」と松江は激昂した。

捕虜どもに、自由気ままに贅沢をさせる余裕など軍にはない。彼らは敵国の捕虜だ。それを忘れてはならん。

松江の興奮は収まらない。

片時も忘れたことはありません。彼らは敵国の捕虜、しかし犯罪者ではない。彼らも、祖国のために戦ったのです。しかも、わずか5,000人で数万の連合軍と互角以上に戦い抜いた勇士たちだ。決して、無礼な扱いをしてはならない。戦争が終わってドイツへ帰還できる日まで丁重に扱うべきだと思うております。

会津武士としての誇り

多田の目が、侮蔑の色を見せた。「松江中佐。君は、会津の出身だったな。いつまでたっても会津は会津だな」。言葉を飲み込んだ松江は、多田をぐっと睨みつけた。

帰りの汽車で、まっすぐに背筋を伸ばして、座席に腰をかけた松江は、ただ一点を見据えていた。「会津は会津だな」、そういう侮辱を、今まで何度受けてきたことか。

約50年前の明治維新の際会津藩は藩をあげて薩摩長州の官軍と戦った。敗れて生き残った藩士たちは「降伏人」と蔑まれ、本州最北端の下北半島の斗南(となみ)の地に押し込められた。

松江はそこで生を受けたのである。西南戦争で会津武士たちが活躍し、ある程度の名誉を回復したが、まだ松江のように将校にまで昇進した人物は少なかった。会津武士としての誇りが松江を支えそしてドイツ人俘虜たちへの同情となっていたのだろう。

予算削減への対策として、松江は山を買って、捕虜たちに木の伐採をさせた。それを薪として市価よりも安く買い上げ、収容所内の炊事や風呂炊きに使って、予算節約につなげようというのである。事情を知った捕虜たちから、志願者が自発的に集まり、ドイツ本国で営林署に勤めていたクリーマント軍曹の指揮のもと、熱心に働いた。

print
いま読まれてます

  • 捕虜のドイツ兵たちを感涙させた徳島県「板東俘虜収容所」の奇跡
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け