捕虜のドイツ兵たちを感涙させた徳島県「板東俘虜収容所」の奇跡

 

「諸君、新聞を出したまえ」

1918(大正7)年11月、ドイツが降伏し第一次大戦が終わった。戦勝を祝って、徳島の大通りも花山車や提灯の灯で光の洪水となった。沿道を埋め尽くした群衆は日の丸の小旗を振って、沸き立っていた。しかし、板東の町はひっそりとしていた。「ドイツさんが可哀想だ」と泣いている女性までいた。

収容所も静かだった。いつもなら活気のある印刷所は音もなく、皆ぼんやりと、雨にけぶる窓の外を眺めていた。そこに松江が現れて、「今まで出していた新聞をどうするんだ」と聞いた。ヘルマンたちは顔を見合わせて、「この状況では、とても手につきませんから」と答えると、松江は言った。

諸君の気持ちは判るが、どんな苦しみのなかでも、人は光を見つけ、将来に立ち向かう勇気を持つべきだ。

そういう松江は、酷寒の地・斗南での会津人たちの絶望的な生活を思い起こしていたのかも知れない。

諸君、新聞を出したまえ。そして、そのことを紙上で全員に呼びかけたまえ。

粛然とした一同に、松江の力強い言葉が響いた。「これは私の命令だ」。全員が、深く胸を打たれていた。「松江所長、判りました命令を感謝します」と、一同は日本式に頭を下げた。

「われわれには敵味方の区別はなくなった」

1919(大正8)年6月、ヴェルサイユで第一次大戦終了の調印式が行われた。松江所長は捕虜全員を中央広場に集め、訓示を行った。

私はまず、このたびの戦争で亡くなった敵味方の勇士に対して哀悼の意を…、もとぃ、今、私は敵味方と言ったが、これは誤りである。去る6月28日の調印終了の瞬間をもって、われわれには敵味方の区別はなくなった。今や諸君は捕虜ではなく、一個の自由なるドイツ国民となったのである。

 

すでに諸君が想像しているように、敗戦国の国民生活は悲惨なものである。どうか困難にめげず、祖国ドイツの復興に尽力してもらいたい。

最後に松江は捕虜全員を見渡し、力強いドイツ語で言った。「本日ただ今より諸君の外出はまったく自由である」。捕虜たちの間から、一斉に拍手と歓声が沸き上がった。「ダンケ! ダンケ!(ありがとう)」という声が収容所を揺るがし、放り投げられたたくさんの帽子が、青空に舞い上がった。

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