2台に1台。日本のスズキが大国インドで異常に愛される理由

 

「真剣に話を聞いてくれたのはミスター・スズキだけだった」

こうした低コスト化への真剣な取り組みがインド市場で花開くことになる。昭和57(1982)年、スズキはインドへの進出を決めたのだが、それはまさに「瓢箪から駒」から始まった。

パキスタン出張中の社員が、帰りのエア・インディア機中で現地の新聞を読み、「インド政府が国民車構想のパートナーを募集」という記事を見つけた。その報告を聞いた鈴木は、「すぐにインド政府に申し込んでこい」と指示した。日本では最後尾のメーカーだったので、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」という気持ちだった。

ところがすでに募集は締め切りになっていて、スズキの申し込みは断られてしまった。鈴木は「いいか。セールスは断られたときからだ勝負だあきらめずに掛け合ってこい」と再び、社員を現地に派遣した。その申し出も断られたが、3度目の掛け合いでようやく補欠で認められた

しばらくして、突然、インド政府の調査団がやってくる、という連絡が入った。運悪く、鈴木は前年に提携したばかりのGMとの話し合いで、アメリカに出張する直前だった。なんとか羽田に向かう際の時間をやりくりして、一行の泊まっている帝国ホテルに表敬訪問をした。

30分程度のつもりだったが、先方が「作りかけの建物(工場)もすでにある」というので、細かなレイアウトを描きながら、3時間くらい話し込んだ。先方も熱心に耳を傾けていた。

別れ際、いつまで日本にいるのか、と聞くと、「15日にはインドに帰る」という。鈴木が米国出張から戻るのは16日だった。心残りだったが、「ぜひスズキの工場も見ていって下さい」と別れた。

米国から帰ると、インドの調査団が帰国を伸ばして、鈴木を待っていた。彼らは、当然、他の日本メーカーとも話し合っていたが、「われわれと直接向かい合って真剣に話を聞いてくれた社長はミスター・スズキだけだった。だから、もう一度、浜松に来たのです」と言った。当時は、日米自動車摩擦が深刻化していて、日本の大手メーカーはインドのことまで本気で考えているところはなかったのである。

「個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは認めない」

調査団が帰国してから、2週間ほどで「基本合意書を交わしたいからインドに来られたし」という連絡が入った。社内は騒然とした。「誰かインドに行った者はいるか」と聞いても、誰もいない。「そんなところでクルマがつくれるんですか」という疑問も出た。それでも乗りかかった船で、鈴木はインドに行って、調印した。

インド側の責任者クリシュナムーティは「日本的な経営で構わない。全面的に任せる」と言った。ところが、実際にできかけの工場に行って見ると、幹部用の個室が作ってある。「事務所のレイアウトは日本流でやるはずだ。こんな個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは絶対認めない」と、できあがっていた壁をすべて取り払わせ、大部屋にした。まさに日本の中小企業のおやじそのままのやり方である。

昼食も労働者たちと一緒の食堂でとるという鈴木に、インド人幹部たちは非常な抵抗を示した。鈴木は率先垂範で、毎月インドに行っては、昼食は社員食堂に行って、従業員と一緒に並んで順番待ちをした。幹部たちは冷ややかな目で見ていたが、半年もすると一緒に並ぶようになった

スズキ流では、幹部も作業服を着て掃除もやる。幹部たちは「掃除などは、カーストの低い人の仕事だ」と、言うことを聞かなかった。鈴木は「ふざけるな」と怒って、「工場運営はスズキの主導でやることになっている。それができないなら、インドにおさらばして日本に引き揚げる」と言った。

クリシュナムーティが「ミスター・スズキがそこまで言うのなら、従おうじゃないか」と仲裁してくれた。そのうちに、リーダー格の人々が作業服を着て現場のラインに出て行くようになった日本流が浸透し始めた

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