なぜ李登輝台湾元総統は日本の「武士道」の教えを伝え続けるのか

 

「義を見てせざるは勇なきなり」

新渡戸稲造の生き方そのものに「義を見てせざるは勇なきなり」があった、と李登輝氏は説く。

新渡戸稲造先生が台湾に来てくれるよう要請されたとき、彼はまだアメリカにおり、健康状態もかなり悪かった。しかし、「義を見てせざるは勇なきなり」の武士道精神に基づいて、総督府の一介の技官(地方の課長)という大して高くもないポストに従容(しゅうよう)として赴き、いったん現地に入ったからには命を賭して大事業の成就に向かって全力疾走を続けたのです。なぜなら、国家がそれを必要としていたからです。これこそ、「武士道」の精華であらずして何でありましょう。
(同上)

李登輝氏自身の生き方も同様である。進学先の大学を決めるときにも、何の迷いもなく、新渡戸稲造が学んだ京都帝国大学の農学部農林経済学科を選んだ。立身出世のためなら、東京帝国大学で法律を学んでエリート官僚となる道を選ぶこともできた。しかし、台湾の発展のためには、新渡戸と同じく農林経済を学ぶべきだと考えたのだろう。

しかし、天は李登輝氏に学者としての道を歩ませなかった。

私事にわたりますが、もともと学者か伝道者として生涯を全うしようと思っていた私が、思いがけなくも政治の道への足を踏み入れてしまったのも、いまにして思えば、「天下為公(JOG注:天下をもって公となす。天下は公のもの)「滅私奉公」といった武士道精神に無意識のうちに衝き動かされてのことであったように感じられてなりません。
(同上)

「中華人民共和国」という擬制

李登輝氏に政治家への道を歩ませた一因は、祖国台湾を覆う中国の脅威であった。

そもそも、「中華人民共和国」という擬制そのものが、根本的に嘘ではないですか。孫文の「三民主義」を実現するための国家体制であると広言しながら、かつて民主主義的だったことがありますか? 「人民」に対して自由や平等を許容したことがありますか。天安門事件にしても、チベット抑圧政策にしても、法輪功弾圧にしても、すべてが独裁国家的で、冷酷かつ残忍なことばかりしてきている。いったい、何万人、何百万人の無辜(むこ)の民を殺してきたというのですか。
(同上)

この「中華人民共和国」が、「祖国統一」というもう一つの「擬制」のもとで、「台湾は中国固有の領土」「同じ中国人どうし」という「嘘」をつき、台湾併合を狙っている。

私は、これまで一度たりとも「統一には絶対反対する」などと言ったことはありません。中国の指導者が嘘をつくのをやめ、本当に自由で民主主義的な体制をつくるようになれば、いつでも統一に応じる用意がある、と言い続けてきたのです。それまでは、台湾の人々のために、万民のために、一国の責任ある指導者として「特殊な国と国との関係」という現実を維持しないわけにはいかない、とだけ言ったきたのです。

 

それなのに、彼らは自己権力を保持し拡大したいということばかりに気をとられて、最も大切な国民の自由や幸福を追求する基本的な権利まで、一方的かつ完全に踏みにじってしまっている。そして、このような、ごく当たり前の「公義」を述べる私のことが目障りで恐怖心さえ覚えるからでしょうか、平然と虚偽に充ちた個人攻撃を仕掛けてきている。
(同上)

中国の独裁政権は国家を私し、国民を搾取している。台湾の民をそんな体制に住まわせるわけにはいかない、というのが、李登輝氏の「義を見てせざるは勇なきなり」なのである。

print
いま読まれてます

  • この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け