李登輝氏の新渡戸稲造との出会い
上記の引用は、李登輝氏が新渡戸稲造の英文著書『武士道』を解説した本の一節である。この『武士道』は、新渡戸稲造が国際社会にデビューしたばかりの日本の精神伝統を説くために、1900(明治33)年1月に英文で刊行したものだ。
時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは徹夜でこの本を読破し、感動のあまり、翌日ただちに数十冊を購入して、世界中の要人に「ぜひ一読することを勧める」という献辞を添えて送り、ホワイトハウスを訪れる政・財・官界の指導者たちにも手ずから配ったという。
この4年後に勃発した日露戦争で、日本軍は「武士道」に則った戦いぶりを見せ、世界を感動させた。乃木将軍や東郷元帥が日本古武士の典型として国際社会からの尊敬を受けた。ルーズベルト大統領も日露講和の仲介を買って出た。
その新渡戸稲造の著書に、どうして李登輝氏が関心を持ち、自ら日本語で直接、それも文庫本で300頁以上もの解説書を書くことになったのか。
昭和15(1940)年、日本統治下の台湾で、旧制の台北高校に進んだ李登輝青年は、図書館で多くの書物を読み漁っているうちに、新渡戸稲造の講義録を見つけた。
新渡戸稲造は『武士道』を刊行した翌年、明治34(1901)年に台湾総督府の農業指導担当の技官として赴任し、台湾製糖業の発展に大きな貢献を為したのだが、毎年夏に台湾の製糖業に関係している若き俊秀たちを集めて講義をしていた。それはイギリスの思想家トーマス・カーライルの哲学書を解説した講義だったが、その講義録を読んで李登輝氏は新渡戸稲造の偉大さに心酔するようになり、新渡戸の著書をすべて読んでいった。その過程で出会ったのが『武士道』だった。
「公義」
中国からのミサイルの脅しに対して、敢然と立ち向かう姿は、いかにも勇ましい武士らしき姿だが、新渡戸稲造が説き、李登輝氏が解説する「武士道」とは、そのような「勇」一辺倒のものではない。
新渡戸は、武士道の徳目の最初に「義」を挙げている。「義」とは「義務」であり、「義理」すなわち「『正義の道理』が我われになすことを要求し、かつ命令するところ」と言う。孟子が「義は人の路なり」とし、キリスト教で「義」は神からの要求であるとするのも、同様の意味である。
李登輝氏は「義」は「個人」のレベルに閉じ込めておくべきことではなく、必ず「公」のレベル、すなわち「公義」として受け止めなければならない、と説く。それは社会のために各人が為すべき事を指す。
人の生き方として実践を重んずる武士道は、「義」について抽象的哲学的にあれこれと論じたりはしなかった。それよりも「義を見てせざるは勇なきなり」の一言で、武士としての生き方を表現した。武士道の2番目の徳目である「勇」とは、あくまで「義」を実践する時の姿勢であって、「義なき勇」は「匹夫の勇(思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない人間の勇気)」として、軽蔑された。