上司としては仕事に対する負荷を考えてその対価として食事代金を支払うということなのだが、部下の頑張りというものは果たしてこのように資本に代替できるのだろうか? 私の考えでは、会社のために粉骨砕身頑張る従業員にとって一度の食事によって得られるものは多くないように思う。
お分かりだと思うがご飯に行くことが悪いわけではない。ご飯に行くという金銭的負荷のみによって従業員の頑張りに報いたと解釈する上司がいれば間違っていると言いたいのだ。それはもはや芸をしたらエサをもらえる動物と変わらなくなってしまう。
「今回は大変な仕事を引き受けてくれてありがとう。会社も私もとても助かった。一つこれを乗り越えたことで君のスキルアップにもつながったと思う。周りのみんなも褒めていたよ。せっかくなのでそのみんなと一緒に今回の仕事の達成を祝って食事にでも行こうか?」となれば良いのだが、「しんどい仕事をさせて申し訳ない。お詫びに食事をおごるよ」と言う上司が少なからずいる。
しつこいようだが部下の頑張りに豪華な食事をおごるなと言いたいわけではない。私が部下だとしたら、会社や上司、そして周りの仲間のために頑張った努力や結果を金銭的価値だけで片づけてほしくないのだ。そしてもちろん食事のために頑張ったわけでもない。多くの場合、従業員の給料を上げることによって生産性が上がるわけではないということも似たようなことであると考える。
それにも関わらず愚かな行為を繰り返す上司や会社も多い。資本という絶対的な尺度で安易に物事を評価してきたツケがまわってきている。確かにお金がないと何もできない世の中ではあるが、お金では交換できない価値というものは考えている以上にたくさんあるはずだ。
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