さらに、当時の岩田さんの天才プログラマーぶりを伝える数々の逸話の中でも、特に有名なものには、開発中止寸前の状態に陥っていた『MOTHER2』(1994年発売)に参加した際、スタッフ達に対し、
「このまま、今あるものを使って完成させるなら2年かかります。しかし、私に1から作らせてくれるというのなら、1年で完成させます。どちらにします?」
と提案し、全てのプログラムを組み直し、言葉通り1年で完成させたというものも。
このときの縁から、『MOTHER』シリーズのディレクターだった糸井重里さんとはその後長年に渡って親交を深めることになり、1998年、「ほぼ日刊イトイ新聞」の立ち上げにも参加し、『電脳部長』という肩書きも持っていた。
糸井さんによると、「糸井重里事務所内に置かれている、パソコンの設置・設定。電源コードやLAN ケーブルの配線に至るまで全部、電脳部長がやってくれた」という。
2000年、ハル研での経営手腕を、当時の任天堂社長だった山内さんに高く評価され、任天堂に入社。取締役経営企画室長に就任した。
そして2002年、山内さんから後継者として指名を受け、入社後わずか2年の42歳という異例の若さで、任天堂の4代目社長に就任したのである。
任天堂の社長に就任した岩田さんは、それまでなかった新しいゲーム機やゲームソフトの可能性について、様々なアイデアを考え、実際に具現化していった。
それは例えば、2004年に発売したタッチパネルを含めた2画面という斬新なコンセプトの携帯ゲーム機、ニンテンドーDSであったり、そのゲームソフトの、
「脳を鍛える大人のDSトレーニング」
「おいでよ どうぶつの森」
「ニンテンドッグス」
等など、それまで無かった新しいジャンルのゲームを続々と生み出ししかも、それらは世界中で売れミリオンセラーとなった。
さらに、2006年には、それまで無かった概念の手に持つコントローラーで任天堂の歴史に残る爆発的な売上を記録したWiiをリリース。
Wiiの売上は全世界で累計1億台を突破した。
なお、岩田さんが社長になった2002~2008年までの初期の7年間に、任天堂は売上が約3倍、営業利益も1,191億円から4,872億円へと約4倍に大きく成長し、岩田さんの経営手腕は評価されることとなった。
そんなわけで、岩田さんは引き続きそれまでなかった新しいゲーム機やゲームソフトの可能性について、益々様々なアイデアを実行していった。
例えば、2011年にニンテンドー3DS、2012年にWiiUといった感じだ。
こうした流れが、現在、世界中で記録的な大ヒットとなっている「ニンテンドースイッチ」やゼルダの新作に確実に繋がっていると思う。
冒頭でご案内したとおり、岩田さんは、2015年7月11日、胆管腫瘍のため京都市内の病院で逝去されたが、岩田さんの想いがそれで消えてなくなったわけじゃない。
むしろ、岩田さんの想いは、その想いに応えようとする岩田さんを支えてきた人々によって、以前にも増した輝きを放つのかもしれない。
誰かへの想い。
本当に強い想いは、その人が去ったあとでも残る。
誰かの想いに応えようとしたとき人間は自分が持っている能力以上の力を発揮できるのかもしれない。
ある意味、これは『信頼』に応えることでもあるのだろう。