任天堂が絶好調、故・岩田社長が蒔いた種が大きく花開く

 

岩田聡(いわた さとる)さんは、1959年12月6日生まれ。北海道札幌市出身。

岩田さんのお父さんの岩田弘志さんは、1979年(岩田社長がまだ20歳の頃)から1995年まで4期に渡って室蘭市長となる。その後、北海道庁商工観光部の部長なども歴任され、勲三等瑞宝章も受賞された優秀な政治家だった。

岩田さんのお父さんが市長になった当時の室蘭市は、60億円もの不良債務を抱え財政再建団体へ転落寸前だったが行財政改革を実施し、見事、財政健全化に成功した。

鉄工業市として室蘭を有名にしたのも、お父さんの功績と言われている。そのお父さんは、2008年、83歳で亡くなられた。

そんなお父さんを持つ岩田さんは、1976年、高校生時代(札幌南高等学校)、ヒューレット・パッカード社の電子計算機『HP-65』の存在を知り、アルバイトをして貯めた資金と親の援助でこれを購入。

独学でプログラミングをマスターしゲームを開発。ヒューレット・パッカード社に送ったところ、あまりの完成度から「札幌にとんでもない高校生がいる」と評判になり、機材などをプレゼントされたそうだ。

高校卒業後は東京工業大学に進学。

専攻は工学部情報工学科。

大学1年時の1979年、入学祝いに加えローンを組んでマイコン(1977年にコモドール社が発売した世界初のホーム/パーソナルコンピュータ『PET 2001』、当時はパソコンではなくマイコンと呼んでいた) を購入。

この『PET 2001』で、後のプログラマー人生の下地となる本格的なプログラミングを学びはじめる

大学在学中、西武百貨店池袋本店のマイコンコーナーの常連客だった岩田さんは、そのマイコンコーナーの店員らが、1980年に立ち上げた「株式会社HAL研究所」(通称ハル研)にアルバイトとして参加。

社名の「HAL」は、当時最大のコンピュータ企業だった「IBM」のアルファベットを1文字ずつ前にずらしたもので、「IBMの一歩先を行く」という意味から名付けられたもの。

ハル研でプログラミングに熱中した岩田さんは、大学卒業後、そのままプログラマーとしてハル研に就職

この頃のハル研は、社員たった5名の零細ベンチャー企業で、岩田さんはプログラミングの他、デザイン、販売、スタジオの掃除まで何でもやっていたという。

また、東工大まで出たのに、なんだかよく分からない零細ベンチャー企業に就職した息子さんに対して、当時、室蘭市長だった岩田さんのお父さんは猛烈に反対入社から半年はまったく口をきかなかったそうだ。

ところで、岩田さんが大学に入学し、ハル研に就職するまでの間、昭和58年(1983年)7月15日に、任天堂から、あのファミリー・コンピューターの初号機が発売されているが、岩田さんは、ファミコン史の初期段階から、任天堂に顔を出し、ファミコン向けゲームのプログラムをハル研で担当することになった。

しかも、このとき岩田さんが作ったのは、『ピンボール』、『ゴルフ』、『バルーンファイト』など、今でも語り継がれる初期ファミコンの超名作ゲームばかり。

中でも、特に『バルーンファイト』は、ゲームセンターにあるアーケード版よりも非常に滑らかな動きを実現し、アーケード版のプログラマが感心して岩田さんの元へレクチャーを求めて訪れたり、それが『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされた等というエピソードも残っている。

要するに、岩田さんは、プロのプログラマーになったばかりの初期段階から天才的な才能を発揮していた人だったのだ。

その後もハル研と任天堂の共同事業は継続。

1992年、ハル研の経営が多額の負債から行き詰ると、当時の任天堂社長だった山内溥さんは、岩田さんをハル研の社長に抜擢することを条件に、経営建て直しを支援した。

この社長抜擢の前まで岩田さんは、経営とは直接関係のない開発部長(プログラム開発の最終責任者)だったが、その後、山内さんの予想通り、社長として高い経営手腕を発揮している(15億円の負債をわずか6年で完済)。

自ら率先してPRやプロモーション活動を行っていたが、社長になってからも、時々プログラミングにも参加し、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』などのヒット作シリーズを送り出し経営再建を成功させた。

『大乱闘スマッシュブラザーズ』の第1作のプレゼンテーション用プロトタイプを作り上げたのも岩田さんである。

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