駄菓子「都こんぶ」の元ネタは倉庫でかじった切れ端だった?

 

どこか懐かしい食べ物を愛情込めて紹介する無料メルマガ『郷愁の食物誌』では今回、著者のUNCLE TELLさんが、酢こんぶ菓子で圧倒的なシェアを誇る「都こんぶ」のサクセスストーリーを紹介しています。なぜ創業者は「都こんぶ」を思いついたのか、このネーミングにはどんな想いが詰まっているのか、興味深いエピソードが満載ですよ。

都こんぶ物語

今回は、酢こんぶと言えば、誰しも思い浮かべる「都こんぶの歴史秘話を、作っている会社・中野物産株式会社のホームページから要約、多少アレンジしてお届けしよう。サクセスストリーだが、なかなか興味深い。

キヨスクなどで売っていて、酢こんぶと言えば、誰しも思い浮かべる「都こんぶ」。

1912年(明治45年・大正元年)に京都で生まれたという中野物産の創始者、中野正一氏によって考案され、世に出た。中野正一氏は、小学校を出てすぐに大阪府堺市のある昆布問屋へ丁稚として奉公。日々の厳しい生活と商売の中で、倉庫の中にある売りものにならない昆布の切れ端をおやつの代わりとして食べながら、「こんな切れ端のこんぶも、味付けしたらお菓子になるのではなかろうか? もしかしたら売れるのではなかろうか」と頭を巡らしていた。

根っからの創意工夫と商才のある中野正一氏は1931年(昭和6年 )19歳で晴れて独立。堺に中野商店を創業、かねてから温めていたアイデアの昆布を原料としたお菓子を開発。それは今の「都こんぶ」の原型の黒蜜の入った酢漬けの昆布。そしてこの昆布を原料にしたお菓子に自分の望郷の思いを込めて都こんぶ」』とネーミング。

中野商店は生まれたばかりの「都こんぶ」を販売するために、まず駄菓子の販路に目をつけた。当時は子供相手の駄菓子屋が中心であったから、菓子問屋の立ち並ぶ大阪は天王寺や松屋町へ売り込みを開始、さらに中野正一氏は子供たちの娯楽の中心であった人気の紙芝居屋にも目をつけ、強力に売り込みを行った。このことで、少しづつではあるが「都こんぶ」の名前は全国に広まっていった。

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