駄菓子「都こんぶ」の元ネタは倉庫でかじった切れ端だった?

 

だが「もっと人の集まるとこに行かねばならん」そう考えた中野氏の思いついた場所は映画館や演芸場。「都こんぶ」は、いままでの子供相手の商品としての需要だけではなく、大人にも充分受け入れられる菓子であることを確信した中野氏の次に思いついた販売場所は鉄道であった。

「日本全国に広がる国鉄の駅には売店がある。小さい「こんぶ」だったらきっと置いてもらえるに違いない」と考えた中野氏。こうしてサラリーマンのポケットにも女性のハンドバックにも入り、しかも手のひらにすっぽりおさまるサイズを基本に、現在の原型となる小さな縦型の紙箱に目立つ赤い色に桜の花びらと都の文字の「都こんぶ」が誕生。

鉄道弘済会(現在のキオスク)での販売が加わり知名度が全国に浸透していった「都こんぶ」を、どこにでも置いてあるお菓子にしたい。その思いを強力に後押しするために、当時では珍しかったテレビCMやラジオ放送も積極的に活用。CMには当時のお茶の間で人気があった落語家の林家三平氏(1980年に故人)や、知名度の高い知性派女性タレントのイーデス・ハンソンさんを起用、テーマソングを用いたCMによる広告宣伝活動を行った。

大阪市内の南北の交通手段の要である大阪地下鉄御堂筋線の各駅(新大阪~西田辺)の改札口への広告、大阪ナンバ駅前のネオンサインなど工夫してを実施。大阪万国博覧会前後という当時最大のイベントと絡み合ったこともあり、「都こんぶ」は知名度は更に上がった。

これら宣伝活動の効果もあり、水産庁長賞(昭和40年)・第17回全国菓子大博覧会大臣賞(昭和43年)を受賞し、昆布菓子では不動の地位を占めることに…。1997年(平成9年)に完成した大阪府貝塚市にある二色浜工場では「都こんぶ」「おしゃぶり昆布」シリーズが、約100人のスタッフの手によって、昔ながらの方法で手作りを基本に、両シリーズでニーズに合わせた30数種類が製造されている。

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団塊の世代以上には懐かしい郷愁の食べものたちをこよなく愛おしむエッセイです。それは祭りや縁日のアセチレン灯の下で食べた綿飴・イカ焼き・ラムネ、学校給食や帰りの駄菓子屋で食べたクジ菓子などなど。

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【著者】 UNCLE TELL 【発行周期】 月刊

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