借金8億からの大逆転。なぜ男は「世界一の庭師」になれたのか

 

花に人生を賭けよう

石原さんが花に人生を賭けようと思ったのは23歳の時だった。長崎で自動車の整備士をしていた頃、たまたま、ちょっとやってみようかと生け花を習い始めたのがきっかけだった。

池坊の教室で先生が活けた花を見て感動した。2度、3度と通ううちに、どんどん面白くなって、花屋になろうと決めた。花屋としてどうやって成功するかと考え出したら止まらなくなった

近くの路上販売の花屋に飛び込んだ。「ぼくを雇ってもらえないでしょうか。給料はいりません」。家は農家なので、食べる分には困らない。石原さんの本気さを感じたのか、花屋の主人は「じゃあ、明日から来い」と言ってくれた。

実地に花を売りながら、お客さんへの声の掛け方、気持ちのつかみ方、買って得したと思わせる小さなサービスを学んだ。また、向かいの八百屋や魚屋からも、多くの事を学べた。無給のアルバイトでも、目標がはっきりしていれば短期間で商売の基本を身につけることができた

25歳で実家の牛小屋を改造して、「花風」という花屋を始めた。しかし昭和57(1982)年7月に長崎を襲った集中豪雨で、花畑も全滅し、やっとの思いで購入した軽トラックも浸水してしまった。

行きつけの喫茶店でマスターに「花屋をやるのが夢だったのに、すべて流されてしまって」と話していたら、ちょうどそれを聞いていたのが花屋の社長で「じゃあ、うちに来るか」と声をかけてくれた。「よろしくお願いします」と即答した。

「全力で、喜ばせようと思ってやったことは、伝説になるのです」

石原さんが任されたのは、飲み屋街の奥まった一畳ほどのスペース。朝6時頃から花市場で仕入れをして、夜中の1時まで働いた。

まずしたことは挨拶だった。店の前に立って人が通る度におはようございますと威勢良く挨拶する。バーのママさんから「あんた、よう、あいさつするね」と褒められ、「うちの店に飾る花、今度持ってきて」と頼まれると、大サービスでものすごく大きな花を持っていって、「あんた、すごかばい」と驚かせた。

大切なのは目の前のお客さんと喜ばせること。それを続けるうちに、お客さんは次第に増えていった。

29歳で独立し、やがて一等地にたたみ一畳の花屋を開いた。そこに若い男性が来て「福岡にいる彼女に誕生日の花をどうしても贈りたい」と言ってきた。「分かりました」と店を閉め、3,000円の花を届けるために長崎から福岡まで一般道を4時間ひたすら走った

着いた時には、夜遅くなっていたが、チャイムを鳴らして、出てきた彼女に「Aさんからのプレゼントを届けに来ました」と花を渡した。ピンクダイヤモンドというきれいなチューリップだった。彼女は泣き出し、つられて石原さんも泣いた。

儲けを考えたら、3,000円の花を4時間もかけて届ける事などできない。しかし、この花束は二人の間で忘れられないエピソードになる。そして石原さんにとっても。「全力で喜ばせようと思ってやったことは伝説になるのです」と彼は言う。

負債8億抱えて

ひたすらにお客を喜ばせようと商売を続けていくうちに、店舗は30軒従業員は100人を超える花屋に成長した。しかし、36歳を過ぎた頃、「長崎で一番になる」という目標も達成し、社員旅行で海外にまで行けるようになった頃、石原さんの中で何かが変わっていた。

会社をもっと大きくしよう、もっとお金を儲けようと、花の自動販売機を作ったり、花屋のコンサルタントをしたりと試みた。そんな時に大手商社が「合弁会社をつくりませんか」と持ちかけてきた。

全国に800店舗を展開しましょう。従業員も何千人です。5年後には株式を公開し、石原さんは何十億円ものお金を手に入れられるのです」と言われた。

今までの成功で、「なんでもできる」と思っていた石原さんは、この話に乗った。しかし、東京のオフィスに座りながら全国にフライチャンズの花屋を展開していくと、長崎の30店舗を経営するのとは全く違うことが分かってきた。

長崎の30店舗なら、自分が歩いて店舗を回りながら、いけると思った花を大量に仕入れて「一本10円で売れ」といきなりセールを命ずることもできた。しかし、全国展開となると、土地柄も分からなければ、お客の顔も見えない。売上はまったく伸びなかった

2年間で負債が8億円に達した時、石原さんは合弁会社をたたみ、負債も在庫もすべて引き受けて、長崎に帰った。44歳の時だった。

print
いま読まれてます

  • この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け