ここにも日台の絆。日本で終戦を迎えた「台湾少年工」達のその後

jog20170815
 

これまでも日台の絆について様々な歴史的秘話をご紹介してくださった無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』の著者・伊勢雅臣さん。今回は第2次世界大戦中に日本に渡り、神奈川県大和市にあった「高座海軍工廠」で軍用機製造に携わった台湾少年工の知られざるエピソードが記されています。

台湾少年工たちの誇り

台湾高座会という団体が2013年5月9日、約250名ほどの会員を台湾から日本の神奈川県座間市に送り込んだ。先の大戦中、8,400余名もの15歳前後の少年たちが台湾から日本にやってきて、学びながら、神奈川県座間、大和の「高座海軍工廠(直属の軍需工場)」で軍用機製造にたずさわった。その人々が80代になって、再び来日したのである。

他の近隣諸国なら、これは戦時徴用で賠償を求める裁判に来たのか、と疑ってしまうが、この人々は違う。初来日から70年を迎える記念式典に参加するためである。

2013年4月に日本政府から旭日小綬章を受賞した台湾高座会会長・李雪峰さんは当時を懐かしんで、こう語る。

「小さい子どもだから(服の)ほころびを繕えないということで、農家のお姉さんやおばさんが、いらっしゃいよ坊やと言って、繕ってくれるんですよ。食料不足の中でも芋を一つ二つくれるんですよ。それを子どもたちが非常に大事に食べて」

こう語る元少年工たちは日本でどんな青春の日々を過ごしたのだろうか

「この親不孝者め」

少年工の一人、彭炳耀少年が父親に叩かれたのは、後にも先にも、この時だけだったという。

このバカ者め。親の許しもなく、みよりのない内地(日本)へ行くとは何事か。俺の印鑑を盗んで、志願書(海軍工員)に捺印することはもっての外である。この親不孝者め。
(『台湾少年工回想録』彭炳耀 著)

国民小学校の先生から知らされた少年工の話は、中等教育を受けつつ、工場実習で給料も貰え、衣服、食事、住居が支給され、5年後には技師になれるという好条件だった。それに当時の台湾少年にとって、内地は一生に一度で良いから行ってみたい、夢のような所だった。

あるクラスでは、受験者が30数人も出て、そのうち合格したのはわずか3人だったというから、競争率は10倍以上だったようだ。彭少年は無事に合格した。出発の際には、「お父さん行って参ります。お体お大事に」と挨拶したが、父親は何も言わずに、彭少年の顔を見つめるだけだった。

兄姉たちに見送られて、昭和19(1944)年4月2日夜、台北南西80キロほどの新竹駅から他の合格者らとともに専用列車に乗った。そして台南の高雄港から、輸送船に乗せられ、大荒れの海を船酔いに苦しめられながら、日本に向かった。

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