ここにも日台の絆。日本で終戦を迎えた「台湾少年工」達のその後

 

故郷に帰れなかった少年工たちの慰霊碑

早川金次技手は、少年工たちと共に、高座海軍工廠の機械工場で軍用機の部品を製造していた。座間町の山の下に地下壕を掘って、工場全体がその中に入っており、昼夜交代で200名近くの少年工が作業をしていた。

高座海軍工廠で量産していた局地戦闘機雷電」は、米国の超大型爆撃機B29迎撃のために名機・零戦の設計者・堀越二郎が開発したもので、8,000メートルまで9分45秒で上昇するという高性能を発揮していた。

この雷電が少年工たちを主力とする高座海軍工廠で終戦までに百数十機が作られた。そして厚木の第302航空隊でB29爆撃隊を迎撃し、多大の戦果を上げたという。

昭和20(1945)年8月15日の終戦の後、早川さんはしばらく機械工場に残って、残務整理をした。9月5日、日本人の職員・工員たちはそれぞれの故郷に帰ることとなった。別れの日には、少年工たちは早川さんを取り囲んで、「早川技手、元気でいてください」と涙ぐんだ。

少年工たちは、翌昭和21(1946)年1月に日本の駆逐艦で台湾に送り返された。その日まで、高座海軍工廠内に保管されていた一万俵の米が少年工たちを饑餓から救ったという。少年工たちは自分たちだけで自治会を作って、統制ある行動をとっていた。

しかし、各地で爆撃に倒れたり病死して台湾に帰れなかった少年工もいた。早川さんは、母の名を呼びながら異郷で死んでいった少年工の霊を慰めようと、空襲で焼けた自宅の復旧を後回しにして、大和市の善徳寺に慰霊碑を建てた。

今も、かつての少年工たちが、個人で、またグループで来日すると、この慰霊碑をお参りしていくという。

「お詫びして頭を下げなければ」

同様に少年工たちと寝食を共にした一人に、野口毅・海軍主計少尉がいる。九州帝国大学の学生だった野口さんは学徒出陣には歳が足りなかったが、志願して海軍経理学校に入学し、高座海軍工廠に配属された。

士官用の宿舎は用意されていたが、自ら少年工たちと同じ寄宿舎に住み、いつも部屋のドアを開けていた。最初のうち、少年工たちは敬遠していたが、やがて部屋に入ってくるようになった。

戦後は故郷の九州に戻り、半世紀が経った平成5(1993)年4月、かつての友人から、元少年工たちが来日するという話を聞いて、矢も盾もたまらず、来日した元少年工たちと会った。

野口さんは、元少年工たちからどんな恨みや非難が出るかと覚悟していた。自分たちが復員した後、どのようにして生活し、どのように帰国したのか、それは想像以上の苦しみであったろう。お詫びして頭を下げなければ、と思っていた。

ところが、元少年工たちが口にしたのは、「大和は第二の故郷です」「この地で経験した試練は、帰国してからも自信となって、あらゆる苦難を克服することが出来ました」という言葉だった。

実際に、元少年工たちの中からは、銀行の頭取、大学教授、国会議員、中小企業の社長が輩出して、戦後の台湾の発展を支えたのである。

野口さんは驚いた。しかし、半ば信じられない気持ちだった。あたら青春を無為に過ごし、進学も出来ず、約束が違ったのではないだろうか、と。

しかし、元少年工たちは「当時のことが懐かしい多年の念願でもあるので有志そろって来日の予定です」という。2ヶ月後、その言葉通り、少年工としての来日から50周年を祝う大会に、台湾から大挙して来日した。戦後も日本に残った人たちと合流して、その数、実に1,300人であった。

靖国神社に祀られていた台湾少年工戦没者

野口さんは、早川さんの建立した慰霊碑を見て、戦没少年工のことを調べようと思い立った。各地に残っていた当時の記録を調べ、それらをつき合わせて、戦没者の名簿を作った。

その名簿を靖国神社に提出して、戦没少年工が英霊として祀られていないか、調べて貰った。その名簿と、250万柱の合祀者を照合するという困難な作業の結果、40名がすでに合祀されている、との通知を平成10(1998)年に受けた。

台湾出身者の少年工たちも、当時は立派な日本国民であり、かつ軍属であるから、空襲や病で倒れた場合は日本人将兵と同様に国家に命を捧げた英霊として祀られる。こういう所が、我が国の律儀さである。

私は記載された戦没台湾少年工の合祀者を一人ずつ、何度も見つめながら、思わず胸がいっぱいになり、溢れ出る涙をおさえることが出来なかった。
(『台湾少年工と第二の故郷』野口毅 編・著 展転社)

しかし、野口さんの調査で、12柱の少年工がまだ合祀されていないことが判明した。野口さんはこの12柱についても、「元高座海軍工廠主計少尉、野口毅」の名義により合祀の申請を行った。合祀の申請は、所定の審査を経た後、陛下に上奏されるという。

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