ここにも日台の絆。日本で終戦を迎えた「台湾少年工」達のその後

 

「全員一丸となって、懸命に働いた」

当時の高座海軍工廠は座間、大和など数村にまたがる30万坪の用地に、工員1万人を擁し、最新鋭の局地戦闘機・雷電を生産していた。このうち8,400人が台湾出身の少年工であった。

この頃は日本内地では15歳以上の男子はほとんど軍隊に志願したか、徴用工員として軍需工場で働いていた。そこで「台湾には日本教育を受けた優秀な少年がいる」との発案から、今回の募集になったのである。

10畳の10人部屋を2階建てで20室備えた木造寄宿舎に1棟200人が入り、それが40棟並んでいた。そこに4月頃から、台湾から到着した少年工たちが続々と入寮した。

彭少年は基礎技術をみっちり鍛えられた後、その夏には1,000名の少年工とともに、名古屋にある三菱大江航空機製作所に派遣された。そこでさらに約20日間、飛行機製造の基礎を叩き込まれる。

指導員は厳しい中にも思いやりがあって、少年工たちの腕はみるみるうちに上達した。彼らが作業に入るようになってから、生産は大きく伸び、廠長から団体表彰を受けまた個人表彰も数人受けた。三菱のお偉方からも「大人たちをはるかにしのいでいる。しかも優秀な飛行機を製作している」と直々に褒められた。

本廠(大江)にきている学徒兵、女子挺身隊、製作員、そして少年工たちも、全員一丸となって、立派な飛行機を1機でも多く生産するように、懸命に働いていた。…我われの作った飛行機が、任地で終戦になるまでに、1機も故障がなかったことを付記したい。
(同上)

「お前ら、俺を殺すなよ」

本拠地の高座工廠に残った少年工たちは雷電の製作に携わったが、完成した飛行機はベテラン・パイロットが試験飛行をした上で、戦地に送られる。

ある時、試験飛行中の雷電が墜落するという事故があった。1万1,000メートルほどに急上昇した後、水平飛行に移ろうとした瞬間に、何の前触れもなく、突如、機首を真下にして、真っ逆さまに落ちていった。

テスト飛行をしていた森益基(ますき)兵曹は態勢を建て直そうとあれこれ操縦を試みたが、全く手応えがない。機体は瞬く間に4,000~5,000千メートル落下した。

脱出装置の引き金を何度も引いたが、気があせっているせいか、びくともしない。なにくそと渾身の力を出して引っ張った時、落下傘と自動扉が開き、森兵曹の体は空中に押し出された。そのまま泥沼の田んぼの中に降り立った。脱出時に機体に頭をぶつけ、田に降りた時に、足を挫いただけで済んだ。

翌日、森兵曹は頭に包帯を巻き、松葉杖をついて、工場に現れた。少年工たちはお目玉を食らうのを覚悟して恐る恐る森兵曹の周りに集まってきた。森兵曹は後に、この時のことを思い出しながら、こう語っている。

おそるおそると近寄ってきた、集まった坊主らのあどけない顔を、一人ひとり見ているうちに叱責するのを止めた。俺は笑いながら、「お前ら、俺を殺すなよ」と言い終わるや、きびすを返して工場の門を出た。
(同上)

その場に残っていた少年工たちは拍子抜けするとともに、森兵曹の態度に胸を打たれた。なかには「兵曹殿、すみません」と涙を流した者もいた

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