多様な価値観の時代には、道徳観も多様となるのは当然の理。今、道徳を教えることを難しくしている理由の一つが、「最初の道徳教育」が行われる家庭の多様化にあるのかもしれません。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教員の松尾英明さんが、仮言命法と定言命法という命令方法からアプローチし、道徳教育について解説しています。
道徳における仮言命法と定言命法
木更津技法研での学び。
仮言命法と定言命法という言葉を初めて知った。ググってもらう方が早いかもしれないが、一応説明する。
仮言命法とは、条件付きで命じる方法である。○○すれば△△なことになるよ。だからやろう、という伝え方。良くいうと、行為の目的を予め伝えて行動を促す方法。悪くいうと、エサや脅しを用いる方法である。
定言命法とは、無条件で命じる方法である。有無を言わさぬ命令である。良くいうと、信頼できる相手の言うことを素直にきくこと。悪くいうと、絶対的権威への無思考による服従である。これは、カント哲学・倫理学の真髄であるという。
さて、考え議論する道徳は、当然前者に偏る。後者の定言命法には、考える余地も議論の余地もない。現行の道徳科の教科書を見ると、全てこちらである。
ならぬものはならぬのです、という教えは、後者である。「親父の小言」も、後者である。
さて、どちらが今の時代に欠けているのか。これは圧倒的に、後者である。
行為の理由を教えるのは大切である。ダメなことがなぜダメか、知ることもいい。しかし、エサで釣って動かすというのは、教育の本質からは外れる。
野口芳宏先生は、童話の「金の斧」の話を例に挙げられた。正直に言えば、金の斧が手に入りますよ、という話である。これは、エサでつっているともいえる。道徳の本質的には、正直に言うことは大切だ、ということだけなはずである。
なぜこういうことになるのか。
そもそも、童話とは道徳的には出来ていないのである。童話作家に、そんな義務もない。勝手に教材として用いているだけである(国語の文学教材も、授業で登場人物の気持ちを聞きまくるから、道徳の教材になってしまう)。
浦島太郎はそのいい例である(昔話なので、終わり方にも諸説あり)。善行に対し、最終的に仇のような形で返ってくる。それは、物語だから、それでいいのである。
要は、道徳の物語教材でやると、仮言命法に成らざるを得ない。いいことあるから善行せい、ということになる。