国際基督教大学の学生部長が、新入生の99%以上が黒スーツと白シャツだったことへの違和感を表明し話題となりました。就職活動においてもリクルートスーツ一色となっている現状を「日本の国力の急下降と深い因果関係がある」と論ずるのは、CX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみ、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』の著者で生物学者の池田清彦先生です。池田教授は、制服を「奴隷養成の装置」であるとし、目立たない方が楽だという人が多くなっている日本の先行きを案じています。
変わり者を許容しない国は亡びる
少し前に『同調圧力に騙されない変わり者が社会を変える』(大和書房、2015)と題する本を書いたが、最近、世間一般の風潮から外れるのを嫌がる傾向がさらに激しくなって、これは社会がクラッシュに向かう兆候なのではないかと危惧している。画一的な義務教育と高校教育の結果、目立った行動はマイナス評価に繋がるというイデオロギーをたたき込まれてしまったのだろうか。他人と違ったことをやる人が現れないと、科学も経済も社会も国家も衰退を免れないのだけれども、目立つ人の足を引っ張って、みんなで仲良く下降したいのだろうか。
大学の入学式や卒業式も、みな同じようなスーツを着て羊の群れみたいだ。強制されているわけでもないのに、ほとんどすべての人が自主的に目立つことをしたくないというのは、余り良好な社会とは言い難い。昔はもう少しいい加減な学生が多かったような気がする。私自身は自分が入学した大学の入学式にも卒業式にも出なかったけれども(卒業式はそもそもなかった)、昔はそういう学生も結構いた。
早稲田大学は少なくとも私が勤めていた頃はいい加減な大学で(もちろんこれは誉め言葉だ)、私は入学式にはほとんど出席しなかった。見たこともない新入生の前に座っているのは苦痛だったからだ。反対に、卒業式はサバティカルで沖縄に滞在している時以外は皆勤である。私と一緒に写真を撮りたいであろうゼミの学生諸君は、私が出席しないとがっかりすると思ったからだ(単なる私の思い込みかもしれないけれど)。
かつて、儀式に魅せられた人類といった記事がネイチャー誌に載っていたような気がするが、ダンバー数(約150人くらいだと言われている)を超えた人数の集団を統制するのに儀式は有効な手段だったのだろう。みんなでそろって同じことをする(同じ行動や同じ歌を歌う)と脳内麻薬が分泌されて陶酔状態に陥り易くなるに違いない。
昔から権力者(特に独裁者)が儀式を好んだ所以である。しかし、変わり者を許容しない社会はシステムが硬直化して、状況が変化しても修正が効かず、多くの場合クラッシュして終わりになる。ファッシズム下のドイツやイタリア、15年戦争下の日本など、枚挙に暇がない。この伝で行けば、今の北朝鮮も遠からずクラッシュを起こして崩壊するであろう。北朝鮮化が進む日本も他人事ではないと思う。