日常生活において不思議に思ったり、ちょっと気になったあれこれについて考察するメルマガ『8人ばなし』。著者の山崎勝義さんは今回、世の中のさまざまな問題が、なかなか解決しないのは、「足して二で割る」式の中間解の採用があると持論を展開します。その例として、似たような薬が追加されていく多剤少量服用の実態をあげ、「最高解」を導くには「毒を食らわば皿まで」のような方法論こそ合理性があると主張します。
足して二で割ること
一般的に「中庸」と言えばそれは良い意味である。元々が何事も極端はいけないということを説く語であるから当然と言えば当然だが、その一方で適当なところで妥協することの便利な言い訳として通用しているのも事実である。
実際のところ、中庸からは何も生まれない。「足して二で割る」式の中間解は、その場に限っての最適解としてはあり得ても、創造的(あるいは建設的)最高解とは全くの別物なのである。双方の良いとこ採りなどといったことは、現実にはただの夢想である。そもそも長所と短所が可分なら、その長所だけを以てプレゼンテーションされている筈である。もとより不可分なればこそ、良いところだけを切り離して採用するなどできないということである。
さて、この「足して二で割る」式中間解だが、その最大の弊害は、成功するにせよ、失敗するにせよ、原因が分からないというところである。若干大げさなもの言いではあるが、人類進歩の原動力が仮にトライ・アンド・エラーの繰り返しにあるとするなら、この中間解というものが如何に非創造的であり非建設的であるかが分かるであろう。エラーの原因が分からぬ以上は結果として無駄なトライをしたことになるし、それがためにまた無駄なトライをする羽目になるからだ。やるからには、きっちり挑戦し、きっちり失敗しなければ意味はない。
これは理屈の上の話ではない。世の中のさまざまな問題の根本の周辺には不思議なほどこの中間解的発想が散見する。前にも述べたように、原因が判然としないから対処法も修正や改善程度のことしかできず、ズルズルといつまでも引きずることになってしまうのである。
この間、たまたま目にした医学系のレポートでも、この中間解的発想に基づく適当さの弊害が指摘されていた。それはこういうものである。ある症状に対して薬を処方する。それでも症状の改善が見られない時は最初の薬と同じような薬を追加処方する。これを何度か繰り返しているうちに患者は大して効きもしない薬をいくつも飲まされることになる。多剤少量服用である。その記事ではこれを大いに批判し、単剤十分量服用を目指すべきであると指摘していた。つまり、トライ・アンド・エラーの明確化である。一種類の薬を最大量まで試してこれを評価し、効果が得られない時(または副作用が強い時)は別の薬にスイッチするというやり方である。
よく「毒にも薬にもならない」と言うが、毒にも薬にもならないものは少なくても医学的には毒である。何であろうと摂取すれば、肝細胞には必ず負担が掛かるからだ。加えて時間的にも経済的にも負担が掛かることは言うまでもない。
日本には「毒を食らわば皿まで」という諺がある。一見、乱暴な言い様だが逆説的にその真理をよく言い得ていると思う。結局、最後は胆力の問題なのかもしれないが、これを合理性という観点から冷静に評価しても、やはり優れた方法論と言っていいのではないだろうか。
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