コロナ治療の希望の灯「アビガン」を生んだ富士フイルムの奇跡と軌跡

 

空前のブームで「一家に一台カメラを所有」時代に

太平洋戦争後、富士フイルムも営業を再開したが、50年に始まった朝鮮戦争の報道写真で、日本製のカメラの品質が評価されて、国内に写真ブームが到来。カメラ雑誌が次々に創刊され、アマチュア写真家も急増。瞬く間に一家に一台、カメラを所有する時代となった。

一方、カラーフイルム国産化は、35年にコダックがコダクロームを発売して以来、日本の産業界の悲願であったが、51年に日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督)が松竹から公開され、富士フイルムは製作にあたり技術的なアドバイスを行った。

55年に映画用、58年には一般撮影用の「フジカラー」ポジとネガが完成。50年代後半から60年代にかけて、一気に映画も写真もカラーの時代に入った。

一方、カメラの普及に伴い、消費者サービスとして「富士フイルムフォトサロン」が57年東京、58年大阪に開設され、製品の展示や展覧会の開催を行い始めた。

富士フイルム本社にある「富士フィルムフォトサロン」では写真展示などのイベントが開かれている

富士フイルム本社にある「富士フィルムフォトサロン」では写真展示などのイベントが開かれている

「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなり」が大ウケ

48年に「フジカシックスIA」を発売し、念願のカメラにも進出。70年には、35㎜のコンパクトカメラに加えて、一眼レフも発売して、カメラメーカーとして本格的な陣容を整えた。

この頃の富士フイルムは、高度成長の波に乗って売上が激増していった。

50年代後半より北米を中心に輸出も開始。年商は60年度に181億円だったのが、70年度には1,000億円、80年度には4,000億円に達し、国民的フィルムメーカーとしての地位を固めた。

さらには、62年には英国のランク・ゼロックス社との合弁で、富士ゼロックスを設立し、複写機事業に進出した。富士ゼロックスは80年代に年商2,000億円を超えるほど成功。コピーを取ることを意味する、「ゼロックスする」という言葉が広く普及した。

70年代には、年末年始の「お正月を写そう」キャンペーンが定番化。80年の樹木希林と岸本加世子が出演した「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」のCMコピーは、大反響を呼んだ。

大衆カメラ文化を成熟を導いた「写ルンです」

富士フイルムが世に送り出した大ヒット商品として、86年に発売したレンズ付きカメラ、いわゆる使い捨てカメラ「写ルンです」を語らずにはいられない。

この商品は、コダックが推進してきた「あなたはボタンを押してください。私たちが残りをやります」戦略のある意味で到達点となった。「写ルンです」は、コンビニ、スーパー、駅の売店、家電専門店、DPEショップ、観光地の土産物店など、街のあらゆる場所で安価で売られ、誰もがいつでもどこでも写真が撮れる、大衆カメラ文化の成熟を導いた。

フラッシュ付き、パノラマ、望遠、防水、セピアなど多彩な付加機能が次々に追加され、最盛期の2001年には世界で1億本以上を販売した。CMもユニークで、デーモン小暮閣下出演の課長シリーズはインパクトが大きかった。

今まで富士フイルムが創業以来背中を追いかけてきた、コダックやアグファが「写ルンです」をベンチマークした商品を出す時代になった。

富士フイルム、過去から現在までのフィルム商品

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