最後の「返礼の義務」はポトラッチに特徴的なもので、ほぼ同格の二者の間でポトラッチが行われると、互いに相手より優位に立とうとすれば、送ってもらった以上のものを返し、相手はさらにそれ以上のものを返し、贈与合戦の様相を呈してくる。最後は、貴重な品を相手の見ている前で破壊し、相手も同等以上の品を破壊するといった、蕩尽合戦にまで行きつく。後からアメリカ大陸にやって来た資本主義に馴染んだ白人から見れば、ポトラッチは悪しき浪費に見えたことは想像に難くない。カナダ政府もアメリカ政府も19世紀の後半にはポトラッチを禁止したことからもそれが分かる。
しかし、貨幣経済以前の社会では、ポトラッチは財の交換や再配分という意味合いもあったことは間違いない。モースは返礼の義務があることを強調しているが、贈与に対する返礼とは、贈与品と返礼品が同じものでなければ、結果的に物々交換に当たり、お互いに必要な品を手に入れる方途であったはずだ。また贈与品と返礼品の価値に、社会的地位に応じた差があれば、ポトラッチは部族間あるいは個人間の財の平準化に寄与したに違いない。
人類史において、今日食べる以上の食糧が備蓄できるようになると、部族間であるいは個人間で、貧富の差が開いてくるのは避けがたい。ある程度平準化するシステムがなければ、行き着くところは極端な独裁政治になることは世界史が教える教訓である。現代になり、民主主義下の国家では、累進課税あるいは相続税といった形で集めた税金を福祉に注ぎ込んで、富の再配分を行ってきた。しかし、ここに来て、グローバル・キャピタリズムは富の二極化を拡大する方向にアクセルを踏んでいるのは憂慮すべき反動だと思う。
貨幣経済以前の社会で、ポトラッチのように、贈与を沢山すればするほど社会的地位が上がるというシステムは、過度な独裁への移行を阻止するうえで、大きな役割を果たしたに違いない。現代社会では、惜しげもなく贈与を行う人は私的には慕われるかもしれないが、一般的には、贈与とは無関係に金持ちと貧乏人を比較すれば、前者の方が社会的地位は高いだろう。貨幣で物を買うということは、物を売って儲かる限りにおいて、買う人から売る人へ贈与が行われたということに等しい。大金持ちは潜在的贈与力が高いのである。
贈与する人と贈与される人の間で権力関係が発生するのは、人類史の始まりと軌を一にしているに違いない。腹が減って死にそうな時に、誰かが食物を恵んでくれれば、思わず「有難う」と言う感謝の言葉を発したくなるが、感謝の言葉もまた権力関係を内包している。
image by: Shutterstock.com