ここにも中国の影。台湾で重大列車事故が繰り返し起こる真の原因

 

2020年、台北の台湾博物館に開設された鉄道エリアの展示物について、「台湾鉄道の父は誰か」論争がありました。当時、このメルマガでも取り上げましたが、台湾鉄道の父は、日本時代に尽力した台湾総督府鉄道部技師長だった長谷川謹介か、それとも台湾初代巡撫で清国の軍人・劉銘伝のどちらか、という論争でした。

答えはもちろん長谷川謹介です。劉銘伝が作った鉄道は、じつに中途半端なもので、まったく実用性のない軽便鉄道でした。

劉が計画した鉄道が欠陥だらけだったのは、技術だけではなく資金や人為の問題もありました。設計は外国人技師でしたが、経費節約や利権確保のため、工事はすべて清の将兵によって独断的に行われ、設計技師はいっさい監督をしませんでした。

工事監督は地方豪族のワイロで動かされ、設計や技術の知識は皆無。そのため、技術を無視して勝手に路線変更を決め、墓地や私有地を避けるということもたびたびありました。また、経費節約のためになるべくトンネルを掘らないよう、地形に沿ってつくられました。その結果、できあがった線路は湾曲し迂回が多くなったのです。

地質などまったく考慮せずにつくられた線路は、崩落する可能性も大きく、即席でつくられた橋は、ほとんどが木製で耐久性がなく、大雨になると当然のごとく倒壊、流失し、使いものになりませんでした。さらに、運行中は左右の揺れが激しくて、乗車する人はあまりいなかったのです。

軍備用としてつくられたこともあって一般的な実用化には至らず、しかも、資金不足にて中途半端に終わってしまい、なんとか開通した部分も、前述したように線路や車両が不完全。さらに祝祭日は運休という、じつに欠陥だらけのお粗末な鉄道でした。

一方、日本時代につくられた鉄道は、台湾鉄路管理局に引き継がれ、今に至るまで活用されています。第四代総督児玉源太郎の時代、「鉄道国営政策」に基づいて、基隆から高雄まで総延長405キロにおよぶ本格的な台湾縦貫鉄道の建設が着手されることになり、この大プロジェクトの指揮を執ったのが長谷川謹介だったのです。

長谷川技師長は、劉銘伝がつくった鉄道は軌道の材質も、設計から施工までのプロセスも不合格の欠陥工事であると診断。坂の急な勾配にも河川の水流にも耐えられない欠陥鉄道など、全面的に撤去して本格的に改築しなければならないと判断しました。

日清講和条約後、日本が接収した旧鉄道の内容は、客車輛20、無蓋車12、有蓋車4、機関車8輛のみでした。劉銘伝が基隆~新竹間に敷いた鉄道は、全長106.7キロもありましたが、撤去してみると廃物利用できそうなものはわずか0.8キロしかありませんでした。

台湾の親中派は、劉銘伝こそ「台湾鉄道の父」と主張しますが、ほとんど役に立たず、しかも軍備用で一般の台湾人のために作られたわけではなかったのです。日本時代につくられた鉄道は、以来、100年以上も台湾の人流と物流の大動脈となり、近代化に大きく貢献しました。

【台湾有情】台湾鉄道の父は誰か

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