「昭和の笑い」は本当に時代錯誤か?チャーリー浜さんの死に思うこと

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1991年の新語・流行語大賞にも選ばれた「…じゃあ~りませんか」のギャグで、吉本新喜劇を全国区にした立役者の一人、チャーリー浜さんが4月18日に死去されました。メルマガ『井上公造の「とっておき芸能情報+LIVE」』では、1999年頃から20年余り、近くで取材をしてきたという芸能リポーターの中西正男さんが、“昔の新喜劇”そのままに若手に厳しかった故人のエピソードを紹介。愛情を込めて身体的な特徴を笑いにする“昭和のお笑い”が受け入れられなくなってきている世の中への思いとともに綴っています。

中西正男の「マル秘取材メモ」:チャーリー浜さん死去で思うこと

4月18日、チャーリー浜さんが誤嚥(ごえん)性肺炎で亡くなりました。78歳でした。昨年3月末の京都・よしもと祇園花月が最後の舞台になりましたが、その後も、吉本新喜劇の後輩座員と飲みに行ったりはされていました。ただ、昨秋あたりから体調が悪くなり、体力が落ちていったと聞きました。

振り返ると、99年にデイリースポーツに入社した時から、僕は新喜劇を至近距離で取材してきました。89年からの大規模なリストラ企画「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」を乗り越え、97年からは東京でも新喜劇が放送されるように。99年の時点で、すっかり“ニュー新喜劇”としての歩みが定着していたとはいえ、それでもまだ昭和の新喜劇を引きずる話を目の当たりにしていました。

とある座員さんが、ギャンブルが原因で数千万円単位の借金をしている。それを取り立てるために、新喜劇に出てくるのとはまるで違う、ポップさの欠片(かけら)もないコワいお兄さんたちが楽屋口に押しかけている。そんな話を劇場関係者から聞き、記事にしたこともあります。

ハチャメチャな昭和の芸能界をさらに煮詰めたのが、昔の新喜劇。そこに座長として君臨していた故・花紀京さんの付き人を務め、これでもかと芸の厳しさと不条理さをたたき込まれていたのがチャーリーさんでした。だからこそ、芸に厳しい。後輩座員の多くが「怒られた」エピソードを話していることが示しているように、芸の世界の厳しさを教え続けた人でもありました。

マイルド、スタイリッシュ、押し付けない、怖くない、踏み込まない…。今の新喜劇、芸能界、そして、世の中全体を見ても、それが1つの是となっています。その中にあって、シーラカンスのように昔の姿のまま生き続けていたチャーリーさん。個性の宝庫のような新喜劇の世界で、そこの住人から見ても異彩を放つ。だからこそ、チャーリーさんにはこれでもかとエピソードが残っています。

「祇園花月の楽屋に若手のリュックなどが無造作に置いてあったら『邪魔になる!』と全力で蹴り上げる。リュックの舞い上がる高さで、その日のチャーリーさんの体調が分かる」。「20分ほどノリノリで電話をしていたので、久々に話す友達とかかなと思っていたら、最後に『おたく、どなた?』と間違い電話だった」。

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