大臣を辞めて横浜市長選へ出馬の異常。小此木氏の背後に“ハマのドン”と菅首相の影

 

市長選のためにだけIR誘致を白紙化する欺瞞性が市民の不信を招くのは当然だが、そこに深く絡んでいたのは菅首相であろう。

安倍・菅のカジノ路線に従ったがゆえに、林市長は自滅への道を歩んだのだ。それをいまになって、あなたではダメだから小此木でいく、と言い渡されたに等しい。

菅首相にしてみれば、地元である横浜の市政を野党系に奪われたら自分の立場がない。衆議院選の結果にも響くのだ。しかし、それは勝手過ぎはしないか。いやしくも、国家公安委員長として適任だから小此木氏を任命したのではないか。ましてや、菅首相が変異コロナウィルスの危険に目をつぶって突入しょうとする東京五輪直前の、この時期である。

小此木氏はどう思っているのだろう。同じ神奈川でも政治家としての知名度では甘利明氏や河野太郎氏の後塵を拝していることもあって、横浜市長への転進は飛躍のチャンスと、とらえている面もあるに違いない。

小学生のころ、父、小此木彦三郎氏の秘書だった菅義偉氏に出会い、大学を卒業してすぐに自らも父の秘書になった。本来なら、建設大臣や通産大臣までつとめた父のもとでじっくり政治の勉強をし、色々な人に会って見聞を広め、器を大きくすることができたはずである。

ところが、26歳の時、父、彦三郎氏が非業の死を遂げた。余談になるが、その“最期”の場面に居合わせた筆者の知人の目撃談を記しておこう。

某企業の社員だった知人はその日、陳情のため同僚とともに衆議院議員会館を訪れていた。5階フロアを歩いていたとき、秘書とともに階段を降りてきていた小此木彦三郎氏に気づいた。左手に杖を持ち、右手を手すりにつけた彦三郎氏は突然、階段から足を踏み外し、体を一回転させるようにして、5段目あたりから5階の床に落下し、後頭部を激しく打ちつけた。驚いた知人はすぐに近くの事務所に駆け込み、救急車を呼ぶように頼んだという。

父を突然失った小此木八郎氏にとって、頼みとする人は、すでに横浜市議として頭角を現していた菅氏を置いてほかになかった。

菅氏は11年にわたり彦三郎氏の秘書をつとめ、永田町、霞ヶ関に人脈を広げていた。ただ、彦三郎氏存命中は、市議の領分より出過ぎたこともできなかっただろう。

恩人の死は辛く悲しいことには違いないが、菅氏が政治家として飛躍するための大きな転機にもなった。横浜市と国とのパイプ役を彦三郎氏に代わって菅氏がつとめるようになり、めきめきと実力を蓄えていった。

菅氏は小此木八郎氏を先に衆院選へ送り出し、中選挙区時代の彦三郎氏の地盤、旧神奈川1区で当選させた。そして自らは小選挙区制となった1996年の衆院選に神奈川2区から出馬し、初当選した。

菅内閣発足時、国家公安委員長就任の記者会見で、小此木氏は菅内閣の閣僚になることについての所感を問われ、こう答えている。

「昔のことを思えば夢にも思わなかった。コロナ禍収束に向けて一丸となる気持ちのほうが重要であって、それについて力を尽くしたい」

あまり二人の間のことを語らないのは、“武士の心得”か、それとも“照れ”か。菅氏への思いをひと言で表現するのは難しいだろう。

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