コカ・コーラの誤算。五輪会場持ち込み飲料を限定させたオワコンの自爆マーケティング

 

東京五輪を直前に控えて、安全と安心の違いを考える

安心と安全という2つの言葉を並べて語るようになったのは、2011年の東日本大震災が大きな契機になったように思います。それまでは、安全ということを言えばそれで良く、安全な措置がされればそれで安心できるという語感があったように思います。

例えば、台風や集中豪雨の際に避難したり、あるいは災害を抑止するために治水工事をするのは安全のためでしたし、原子力発電所や大規模な工場なども安全であれば、それで安心ができるという考え方です。

それが安全だけでは足りない、つまり安全だけでは安心できないということになり、その辺から「安全安心」という四字熟語が生まれたように思われます。例えば、大津波は直下型では発生しないので、必ず沖合の大震度が契機となる、ならば大津波情報を遅滞なく告知して、そこで一斉に高台や頑丈な建物の4階以上に逃げればいいという考え方があります。

そうした安全思想からは、巨大な防潮堤などという発想は生まれるはずはありません。また、巨大な防潮堤を作ってしまえば、二度と美しい海岸を観光資源にすることはできなくなります。そうなのですが、巨大な惨事を経験し、親しいものの死を経験した人間の中には、それでは安心できない、どうしても海を塞いで欲しい、最悪の大津波から人間を守ってくれる防潮堤がないと安心できないという発想は出てきます。

そうした場合に、より徹底した措置が講じられなくては安心できないという人は、どちらかと言えば「弱さ」を抱えた人だという理解ができます。そうなると、やはり「弱さ」を抱えた人の寄り添うのが善であるし、反対に「弱さ」を抱えた人々を敵に回すのは得策ではないというのが社会の自然な反応になるわけです。

そうした心理が社会性を獲得することで、必ずしも科学的な安全を保障はしないが、心理的な安心を提供するモノやコトに多くの労力とコストをかけるようになったわけです。

例えば東日本大震災時に津波で全電源喪失による冷温停止失敗事故を起こした福島第一原発では、実際は線量限度を超えて被曝したことで死亡した人はゼロでした。その一方で、被災地区からきた高齢者は「放射能を浴びていて危険」といった科学的でない感情論に振り回されて亡くなった方は大勢出ました。

もっと言えば、当時は東日本で子どもを育てるのは「安心できない」として西日本に移住する人もたくさん出たのです。

では、純粋に科学的な判断をして安全を確保するのがよく、またそれ以外のことは必要はないのであって、不安心理に振り回されて「安心」のために労力とコストを使うというのは、間違いなのでしょうか?冷静に現実を直視して「安全」だけに徹すればいいのでしょうか?

これは難しい問題です。

結論から申し上げるのであれば、答えは「ノー」だと思います。人間は、自分の経験などから理解し、自分でコントロールできる危険とは共存できますが、そうした範囲を超える「理解不能なもの」「自分から遠い、違和感や異物感を感じるもの」に対しては、「危険回避の本能」を発動してしまうようにできています。

この「危険回避の本能」が不安感情であり、これに対して、その不安感情を除去することが「安心」の確保ということになります。不安感情というのは、確かに目に見えないモノですし、単純な安全確保と比較すると複雑であり、時には非合理であったりします。

ですが、この「危険を感じ、危険を回避したい」というのは、間違いなく生物としての人間の身体が実際に起こす反応ですし、その総体としては間違いなく社会現象として力を持つ性格のものです。ですから、言下にこれを否定することはできません。

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