かつての人気に陰りが…~知られざる感動の復活秘話
中村は毎朝出社すると、必ずするのが「日めくりカレンダーをめくる」こと。そこには創業者・桜田の言葉が日替わりで載っている。「口コミは最高の信頼の情報だ」「やっぱりモスバーガーは違うな」……。
後者は「差別化されて、やっぱりモスバーガーは違うという存在になりたい」という意味だ。櫻田がとった差別化戦略のひとつが、97年に開始した農家との直接取引。農薬を極力使わない野菜を使うなど、安全安心を追求してきた。
この日めくりを通じて、中村は創業者の想いと毎日向き合っているのだ。
もともと弁護士志望だった中村が、大学受験で上京したときに食べたのがモスバーガーとの出会いだった。
「食べた時、本当にうまいと思いました。まさかこれが縁でこの会社に入って社長になるとは思わなかったですけど」(中村)
ところがその後、司法試験に6回落ちて弁護士を断念。モスバーガーに入社する。
中村は当時、創業者の櫻田に提出した企画書を大切にとってある。「味が満足いかなければ、取替えまたは返金する」という突拍子もない企画だったが、櫻田は、「できる!……GO!」と返事を書いてきた。
「こんなスパッと言われるとは思わなかったですね。動いてみないと結果は出ないと学びました」(中村)
ただその直後に櫻田は急逝。中村の企画は実現することはなかった。
それから19年後、モスバーガーの改革を託された中村に就任早々、ピンチが訪れる。長野や山梨などの19店舗で食中毒が発生したのだ。原因は特定されなかったが、安全安心をうたってきたモスのイメージは大きくダウン。影響はチェーン全体に及び業績は悪化。赤字に転落し、窮地に立たされた。
「私たちの商品を食べてお客様が苦しい思いをするのは、とんでもないこと。こんな辛いことはないですよ」(中村)
中村は即座に手を打っていく。それまで肉や加工食品が主だった細菌検査を野菜にまで拡大。検査項目も増やすなど、衛生管理を徹底強化した。さらに、食中毒により収益が悪化したフランチャイズには総額11億円を補填した。
「全部見直して、やり直す作業をして、これで大丈夫だというレベルまで一気に上げました」(中村)
翌年、全国の本部長やフランチャイズオーナーを集めた会議で、中村は今後の大方針を打ち出す。それが「チェンジ」。モスは変わるという決意を込めたのだ。
壇上で中村はタップダンスを披露した。もちろん経験などないが、挑戦する姿勢を自ら示すため、社員やフランチャイズオーナーの前であえて踊ってみせ、「世の中の変化は早い。ゆっくり改革していく余裕はない。早く動かないといけない。新しいモスをつくるしかない」と訴えた。
説明会に出席したフランチャイズのオーナー、埼玉県ふじみ野市にふじみ野店を構える長木紫織さんは「謝罪から始まるという噂だったので、ちょっとびっくり。タップダンスも必死さ、一生懸命さは伝わった。変えるんだということが伝わってきました」と言う。
以来、モスバーガーはどんなことにも挑戦する会社に変わっていく。その姿勢はコロナ禍においても生かされている。
長木さんが向かったのは、埼玉県所沢市の観光農園「所沢北田農園」。ハウスの中で栽培していたのはイチゴ。県内有数のイチゴ狩り農園だ。しかし去年の春、緊急事態宣言でお客が激減。イチゴが大量に余り、窮地に陥った。
「4月に根元から抜いて全て処分する予定でした。悲しかったです」(北田喜久江さん)
この状況を知った長木さんは中村に直談判。農園のイチゴを商品化するよう訴えた。中村もすぐさま応えた。通常商品化には一年近くかかるが、困っている農家を救おうと、4ヵ月という異例の速さでイチゴシェイクを作り上げた。
そして去年の夏、地元埼玉限定で「まぜるシェイク埼玉県産いちご」の発売が実現した。北田さんは5000パック分のイチゴを無駄にせずに済んだのだ。
「救世主です。感謝してもしきれない存在です」(北田さん)
イチゴシェイクの商品化に「できる、GO!」と言った中村にはこんな想いがあった。
「チェーン方針説明会で『一歩踏み込みましょう、挑戦しましょう』と言ったから、『やろう』と。地域に可愛がっていただいているのだから、地域の皆さんが喜んでくださることを大切にしています」