武将の城が次々倒壊。秀吉の「家康討伐計画」と自信を砕いた天正地震

 

それはともかく、天地も揺るがす大地震にさすがの天下人も慌てふためきました。その半生において、常人ならばとても乗り越えられない数々の難題を克服してきた秀吉が、信長横死の報を受け全軍崩壊してもおかしくはない中、鮮やかな大返しで光秀を討った秀吉が、恥も外聞もなく馬を乗り継いで大坂に戻ったのでした。坂本より大坂の方が安全だという根拠はありませんが、秀吉は堅固な大坂城に安全、安心を求めたのです。

ひょっとして、明智光秀の亡霊を見たのでしょうか。光秀の亡霊に取り憑かれてなるものか、と必死で逃走したとしたら滑稽です。光秀の怨霊を嫌ったのか、秀吉は地震で倒壊した坂本城を廃城にしました。浅野長政に命じて大津城を建てさせ、坂本城の資材を移築します。

大坂への帰途の道々、秀吉は悲惨な状況を目の当たりにしたでしょうが、何を置いても我が身大事とばかり、脇目も振らず大坂へひた走りました。

もちろん、被害を受けたのは坂本城ばかりではありません。秀吉の居城であった近江長浜城、越中木舟城は倒壊、美濃大垣城は倒壊後に全焼、京都では多数の伽藍が損傷しました。家康との合戦に勝利を確信した直後、秀吉の自信は天正大地震によって大きく揺らいだのです。

では、代表的な被害実態を記してゆきます。

まず、越中木舟城です。

木舟城は現在の富山県高岡市にありました。越中は佐々成政が支配していましたが、この年の八月、秀吉は十万を超える大軍を率いて成政の居城、富山城を囲みます。成政は降伏、秀吉は新川郡以外の領地は召し上げたものの、成政の命は助けます。剃髪した成政は大坂城で秀吉の話し相手、御伽衆に加えられました。秀吉には織田家の朋輩であった成政に多少の遠慮があったのかもしれません。

越中は前田利家に与えられ、砺波郡にあった木舟城は利家の末弟秀継が城主となります。秀継入城後、大地震の前触れのような地震が相次いで起きました。木舟城は軍事上の要衝とはいえ、脆弱な地盤に築かれていたようです。天正大地震が木舟城を襲ったのは秀継が城主となって三か月後、城は倒壊して秀継は妻と共に圧死しました。息子利秀が生き残ったのが不幸中の幸いです。木舟城は廃城となり、城下の民は近隣の高岡に移住します。

利家は兄弟の中で秀継とは特に仲が良く、秀継の死を深く悲しんだと伝えられています。秀継は武将としても優秀で、佐々成政との合戦でも前線に立って奮闘し、秀吉から賞賛されました。秀継の死は前田家には大きな損失でした。

次に近江長浜城です。

当時、長浜城は山内一豊が城主でした。

一豊は秀吉が木下藤吉郎であった頃から傘下に加わって各地を転戦、度々武功を挙げ、二万石の領主として長浜城の主となっていたのです。かつての自分の居城を与えたことから、秀吉の一豊への信頼が窺えます。きたるべき家康討伐にも大いなる活躍が期待されていました。

地震発生時、一豊は京都に出向いていて不在でした。主のいない長浜城を悲劇が見舞います。一豊夫妻の娘、与禰が圧死してしまったのです。

地震で崩壊した城内を山内家の家老五島為重が見て回りました。真っ暗闇の中、倒壊した御殿から一豊の妻、千代に声をかけられます。千代は与禰が無事かと心配していたのです。まだ与禰の生死を確かめられない状況にあったのですが、五島は千代を落ち着かせようと無事だと答え、安全な場所へと避難させました。城は壊れ、城下では火災が起き、余震も続いているとあってぐずぐずはしてはいらない、と五島は判断し、まずは千代の身を守ろうとしたのです。

千代の安全を確保した上で、五島は与禰の寝所へ向かいました。すると、哀れ与禰は乳母と共に棟木の下敷きとなって息絶えていました。数え六つ、可愛い盛りの夭折です。一豊夫妻には目に入れても痛くない愛娘であったことでしょう。しかも、夫妻にとって与禰はたった一人の実子でした。以後夫妻は子宝に恵まれず、一豊は弟康豊の子、忠義を養子に迎えて山内家を存続させます。もちろん、犠牲になったのは与禰と乳母だけではありません。五島と同じく、山内家の家老乾和信は与禰を助けようとして妻と共に圧死、他にも数十人の家臣が命を落としました。

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