武将の城が次々倒壊。秀吉の「家康討伐計画」と自信を砕いた天正地震

shutterstock_424746277
 

先日掲載の「地震が変えた日本史。家康が江戸幕府を開けたのは『天正地震』で秀吉が家康を討てなくなったから?」では、江戸幕府の開府と天正地震の浅からぬ関係を解説した、時代小説作家の早見俊さん。今なお震央の位置も判明していないこの大地震は、秀吉や家康だけでなく、多くの戦国大名たちの運命を大きく左右するものでした。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』では早見さんが、その被害の実態を詳しく紹介しています。

【関連】地震が変えた日本史。家康が江戸幕府を開けたのは「天正地震」で秀吉が家康を討てなくなったから?

歴史時代作家 早見俊さんの「地震が変えた日本史」メルマガ、詳細・ご登録はコチラ

 

天正大地震が産んだ徳川幕府「その一 地震の様子」

天正十三年(1585)十一月二十九日の夜十時頃、東海地方から北陸地方、近畿地方で推定マグニチュード8という大地震が発生しました。若狭湾沿岸の漁村を津波が呑み込んだという記録もあります。

寝静まった夜の十時、真っ暗闇の中で激震に襲われた人々の恐怖心は想像を絶します。上記日付は陰暦、陽暦では翌年の一月十八日に当たります。厳寒の真夜中、大勢の人々が命を落とし、路頭に迷い凍えたのでした。実際、被害状況が記録に残る各地で大雪だったと記述されています。

時は安土桃山時代、羽柴秀吉(豊臣姓を下賜されるのは翌年)による天下統一が進められる最中の大災害でした。

では、地震が発生した時、秀吉は何処で何をしていたのでしょう。

秀吉は近江坂本城に滞在していました。坂本城は近江国滋賀郡、琵琶湖の南西にあり、明智光秀が築城して居城としていました。光秀滅亡の際に焼失しましたが、丹羽長秀によって再建され、この頃は豊臣政権の五奉行の一人となる浅野長政が城主です。

秀吉が長浜城にいたのは、翌年の一月に実施を計画していた徳川家康征討の準備のためでした。家康の領国三河に攻め込むため、秀吉は美濃、近江の諸大名に兵糧、軍備を調ええさせており、その検分のために立ち寄っていたのです。坂本城の前は美濃大垣城を訪れています。大垣城には征討軍の兵糧となる大量の米を蓄えさせていました。

秀吉は四カ月前の七月十一日、関白に任官しています。紀州の雑賀、根来、四国の長曾我部元親、越中の佐々成政を降し、いよいよ家康を討ち平らげようと万全を期していたのでした。前年、秀吉は小牧長久手の合戦で織田信雄と連合した家康と対決しました。その際、軍勢の数で劣る家康は秀吉の勢力範囲にある領国を包囲すべく雑賀、根来、長曾我部、佐々らに協力を働きかけていました。秀吉は信雄、家康と和睦、休戦した後、上記敵対勢力を各個撃破したのです。

その上で秀吉は家康討伐を自信満々に公言します。農民の子が位人臣を極め、敵対勢力を次々と降し、怖いものがいなくなったのでしょう。大垣城を検分し、家康討伐の準備が着々と進んでいると満足した秀吉は坂本城に立ち寄りました。築城主であった明智光秀を秀吉が討ったのは三年前、主人織田信長の弔い合戦に勝利して、大きく運が開けました。

地震が起きた時、秀吉は坂本城の寝所で家康との合戦に勝利する夢を見ていたのかもしれません。

「将軍には成り損ねてまったが、わしは将軍よりもえりゃあ関白に成ったがや。どえりゃあことだで。なあ、光秀、おまはんもわしがえりゃあこと、ようわかったな」

明智光秀に自慢をしたのではないでしょうか。日本国始まって以来、自分以上に成功した者はいない、と誇らしさで胸が一杯だったに違いありません。前途に微塵の不安もなく秀吉は安眠を貪っていたのだと思います。

ところで、大地震の予兆はありました。七月五日、京都、大坂、伊勢、三河で大きな地震があったことが家康の家臣、松平家忠の日記に記されています。迷信深い人々ならば、その直後に行われた秀吉の関白任官と絡めてこの地震を語っていたのかもしれません。たとえば、出自卑しい者が関白になることを天は怒っているのだ、などと好き勝手に噂していたのではないでしょうか。

歴史時代作家 早見俊さんの「地震が変えた日本史」メルマガ、詳細・ご登録はコチラ

 

print
いま読まれてます

  • 武将の城が次々倒壊。秀吉の「家康討伐計画」と自信を砕いた天正地震
    この記事が気に入ったら
    いいね!しよう
    MAG2 NEWSの最新情報をお届け