ところが、武士の鑑たる鎌倉武士の本拠、鎌倉においても魑魅魍魎が跋扈する平安京同様、いや、平安京以上の陰湿な政争が繰り広げられたのです。
『鎌倉殿の13人』とは源頼朝死後、鎌倉幕府を担った有力御家人13人を指します。ドラマの主人公は北条義時、頼朝の正室政子の弟で鎌倉幕府二代執権です。小栗旬さんが演じる若き日の義時は正義感の強い好青年ですが、頼朝死後、御家人同士で繰り広げられた熾烈な権力闘争を勝ち抜き、鎌倉幕府最大の実力者となりました。
政敵ばかりか頼朝の子、二代将軍頼家、三代将軍実朝暗殺の黒幕視されるように陰謀、謀略の限りを尽くします。筆者が高校3年の時の大河ドラマ、『草燃える』でも頼朝死後の鎌倉が描かれていました。
義時を演じたのは若き日の松平健さん、青年時代は今回のように爽やかで純情な青年でした。日本史の授業で実際の義時の行いを学んだ時、女子生徒が信じられない、と驚いていました。純情青年が権力の権化となり、冷酷非情に政敵を葬っていったことに驚きと幻滅を抱いたようです。
ただ、義時は権力の亡者となって私腹を肥やしていたばかりではありません。鎌倉幕府を敵視し、勢力弱体化を狙った後鳥羽上皇から追討の院宣を下されながら、逆に後鳥羽上皇に打ち勝ち、隠岐の島に配流しました。武家が上皇を島流しにしたのです。この承久の乱以降、鎌倉幕府の権威は一層高まりました。
義時は武家政権を確立した功労者でもありました。
義時以降も北条氏は邪魔者を陰謀で滅ぼし、鎌倉幕府を牛耳り続けます。永仁鎌倉地震は北条氏陰謀の歴史と切っても切れない関係にあります。陰謀に長けた権力者は地震さえも政争に利用したのでした。
永仁鎌倉地震が起きたのは二度目の蒙古襲来があった弘安4年(1281)から12年後です。鎌倉幕府は蒙古勢を撃退したものの、暮らしに困窮する御家人たちは珍しくありませんでした。日本を防衛する合戦であった為、手柄を立てても与えられる領地はなく、何時来襲するともわからない蒙古勢への備えに莫大な出費がかかったからです。
朝廷はひたすら蒙古勢降伏の祈祷を行いました。亀山上皇は石清水八幡宮、加茂神社、北野天満宮を戦勝祈願に訪れ、諸寺、神社にも蒙古降伏の祈祷を命じました。暴風雨によって蒙古勢の船団が海の藻屑となると、亀山上皇も朝廷も神風が蒙古を撃退した、と喜びました。上皇も公家たちも鎌倉武士団の奮闘よりも、祈祷によって起きた神風が蒙古に打ち勝ったと考えました。
命懸けで戦った武士たちが報われませんね。
三度目の蒙古襲来への恐怖、困窮する武士たちの暮らしが続く中、優れたリーダーであった執権北条時宗が急死しました。享年34の若さでした。時宗は北条惣領家の当主を意味する得宗でした。鎌倉時代を通じて9人の得宗が存在します。
時政、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9人です。ところが、この9人の内、時政、義時、泰時つまり三代までの得宗を除き、時氏以降は20代、30代の若さで死んでいます。最後の高時は鎌倉幕府滅亡時の得宗ですから切腹して果てたのですが、他は病死です。病弱な家系であったと考えられますが、毒殺の噂が死亡時からありました。
真偽は不明ですが、鎌倉幕府の最高実両者に毒殺の噂がまとわりつくのは、鎌倉が陰謀術数渦巻く魔都であったことを意味します。とても武士の鑑が主催した質実剛健、健全な都ではなかったことを物語っていますね。
(メルマガ『歴史時代作家 早見俊の「地震が変えた日本史」』2022年5月13日号より一部抜粋。この続きはご登録の上、お楽しみください)
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