抑圧された怒りは、社会構造が生み出す情動で、偏見、差別、格差などによって長い年月をかけて心の奥底に蓄積されます。
どんなにがんばったところで、抜け出すことができない社会。どんなに能力を発揮したところで、認めてもらえない社会。そんな社会構造で孤立した人は、不安、恐怖、絶望、悲しみなど、ありとあらゆるネガティブな感情に翻弄される日常を強いられる。まるでマグマのように、怒りがうごめくのです。
やがて、怒りが限界に達すると、ある人は生きる力を失い無気力になり、ある人は生きる意味を失い死を選ぶ。また、ある人は暴力的で、残虐な行為をとることで、怒りを発散します。
「怒りの発散」にハイジャックされた心には、道徳心や倫理観のかけらもない。ネガティブな生きる力だけが増幅し、自らを正当化するための頑固で勝手で暴力的な思考に支配され、攻撃するのです。
その怒りを鎮めることができる唯一の手立てが、信頼できる他者との繋がりです。
たった1人でも「信頼できる人」が日常にいれば、怒りで凍てついた心が温まります。心の安寧を取り戻すには、ポジティブな感情を持続させる必要があるのでかなり時間がかかるし、容易ではありません。
それでもたった1人でいいから、心の拠り所があれば最悪の事態は回避できる。たった1人で、いいのです。
では、今の日本社会はどうでしょうか。
「抑圧された怒り」を生む構造はかつてないほどに強固になる反面、人間関係は希薄化する一方です。みんな自分が“落ちない“ことに必死で、他人に傘を貸す余裕もありません。
むろん、どんな社会であれ、他者に刃をむけるような暴挙は断じて許すことはできません。しかし、同時に「そうするしかない」と思わせ、追いつめる社会が確実に存在しているのではないでしょうか。
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