ネガティブな言葉として使われる『諦める』に隠された本来の意味

Silhouette of an exhausted sportsman at sunset with the horizon in the background
 

状況を明らかにする勇気

諦の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。

ところが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、望んでいることを途中でやめるという意味ばかりで使われるようになってしまいました。もったいないと思います。

ちなみに、この記事は、人間関係についても「状況を明らかにする勇気」という観点から論じられていて、とても参考になります(今の世の中、政治でも経済でも最も重要な要素だと思います)。

結局のところ、すべての問題、すなわち煩悩と称するものは自分の内から発せられたものであり、結果はすべて自分が蒔いた種によるものだということを知るために何でも明らかにすることが「諦める」ということだとおっしゃるわけです。

そして、こういう言葉で結ばれています。

中途半端な諦めではなく、物事の真相を明らかにした上で諦めたことは、堅固な屋台骨として人生を支え、心おだやかなに人生を歩く上で堅牢な杖になります。

良いことも悪いことも、なぜそういうことが起こっているのか、自分自身を俯瞰して見、内省することが大切だと私も思います。

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