プロレスラーであり国会議員でもあったアントニオ猪木さんが先日、帰らぬ人となりました。79歳でした。メルマガ『NEW YORK 摩天楼便り-マンハッタンの最前線から-by 高橋克明』著者でニューヨークの邦字紙『NEW YORK ビズ!』CEOの高橋克明さんは、大ファンだった猪木さんとの思い出を、自身の発行する新聞に掲載したインタビューの言葉を載せながら故人を偲んでいます。
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燃える闘魂とのNYでの思い出
猪木さんが逝きましたー。難病「全身性アミロイドーシス」という病気で療養中だったとのこと。心不全、79歳、ご自宅で息をひき取られました。ここ数年の療養中の様子はずっとYouTubeで見ていました。
プロレスラーであり、国会議員でもあったアントニオ猪木さんは、もう、職業「アントニオ猪木」でした。人間がそのままキャラクターだった。ジャンル分け不可能なほど偉大な存在でした。
僕たち以上の世代の、当時、影響を受けなかった特に男子は皆無ではないだろうか。
1,028人のインタビュー、音源を消せなかった3人のうちのひとり。
間違いなく 日本の歴史上最高のプロレスラーであることは、いまさらここで書く必要がないほどだと思います。当時のモハメド・アリを引っ張り出してきて日本のリングで戦うなんて、今でいうと、高校の文化祭のゲストにレディー・ガガを呼ぶようなもの。たとえ話が、わかりづらいか。でも、もっと難しいかもしれません。
猪木さんの最大の魅力は周りが「絶対できるわけねえじゃん!」と笑い飛ばすようなことを、次々実現させていったことに尽きます。イラクの人質解放然り、北朝鮮での40万人規模のイベント、平和の祭典開催然り。
僕の幼少期から学生時代にかけて、まるで強迫観念にかられているかのごとく挑戦し続けるその勇姿に、感動を通り越して「信じられない」という気持ちで見ていました。どうしてこの人はここまで挑戦し続けるのだろう。雑誌のインタビュー等を読むとそのことを「男のロマン」という言葉で片付けていました。
最高のプロレスラーとの出会い
最初に出会ったのは、というよりお声だけ、電話で話したのは今から21年前。渡米当初、今の仕事に就く前、食べていくのがやっとだった日本食レストランのバイト時代。そのレストランは国連の職員のランチ御用達のお店でした。来店していた国連の職員の方が、店長に「ここ電話して。店で待ってると伝えてくれ」とあるホテルの電話番号を渡しました。当時、まだLINE電話なんてない時代、国連関係の仕事でNYに来ている猪木さんをホテルから呼び出す電話をしてほしいとのことでした。
僕がかなりのプロレスファンだったことを知っていた店長が「おまえ、電話するか」と最高の雑用を振ってくれました。当時20代だった何者でもない僕にとって猪木さんと生で話せるなんて天にも昇るきもちだったことを覚えています。ガチガチに震えながらホテルのフロントに電話して、部屋までつないでもらいました。裏返った声で「●●さまが、●●レストランでお待ちしておりますぅ」と震える僕に「はい、はい。ちょっと遅れるとだけ伝えてもらえますか」と間違いなく猪木さんの声で伝えられました。…、それだけです(笑)。たったそれだけで、ごはん3杯はイケる極上のおかずエピソードになりました。
2回目はそれから2年か3年後、この仕事を初めて目まぐるしく働いている時でした。5番街でひとり大きな男性がウインドウ越しにお店の商品を見ていた。360度どこから見てもアントニオ猪木に、迷わず挨拶。
「ファンです!NYでこんな新聞出してます!ぜひ、いつかインタビューさせてください!」
ニューヨークでプライベートな時間を過ごす日本の有名人を見かけることは珍しくありません。もちろん、話しかけるなんて無粋なこと、普段はしない。迷惑でしかない。わかった上で、猪木さんには気づけば、無意識に話しかけていました。めんどくさかったと思います。でも、笑顔で「はい、はい」と渡した新聞を受け取ってくださった。そこから5年後、実際に、手渡した新聞のコーナーで単独インタビューをさせて頂くことになります。
2009年。公私に渡る猪木さんの長年の友人である、YT Resolution、高崎康裕社長のご好意により、単独でのロングインタビューが実現しました。取材場所は5番街に面したYT Resolution本社オフィス。その時点で僕はすでに世界のトップアスリート50人以上に単独インタビューをしていたので、なぜかそう緊張もせず、ワクワクしていただけだったことを覚えています。30秒の電話だけであれだけふわふわしていたのに。
それでも、密閉された空間で対面に座った1時間以上に及ぶ、ロングインタビューは“夢空間”でした。完全に仕事を忘れていた。とにかく、すごくすごく楽しい時間でした。
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