一連の流れを野田氏が覚えていないわけはない。それでも、追悼演説という性格を十分にわきまえ、最後まで礼節ある言葉を発することに努めた。そのことには筆者も共感する。深い敬意を評したい。
しかし、野田氏が安倍氏との国会論戦について「丁々発止」「真剣勝負」「張り詰めた緊張感」などの「美しい」言葉を繰り出すたびに、筆者はどうしても、それとは真逆の論戦の数々を思い起こしてしまうのである。
筆者には、安倍氏の数々の答弁を、野田氏のように「美しく」振り返ることはできない。
「せっかくの感動的な追悼演説の直後に、わざわざ安倍氏を悪く言うのか」。そんな批判も聞こえてきそうだ。しかし、追悼演説の内容と、安倍氏自身の政治的評価を、安易に一緒にすべきではない。
野田氏の演説は非の打ちどころのないものだった。しかしそれは「追悼」という特別な場面のために用意された言葉である。その基本を踏まえることができなければ、あの演説によって、党首討論をめぐる一連のエピソードが一種の「美談」と化してしまう。
追悼演説が議事録に残り、後世の国民がそれを読んで、安倍氏がまっとうな国会論戦をしていたかのように受け取られるとしたら、それは大きな誤りである。
追悼演説を通して安倍氏の死を悼むことは当然だ。しかし、前述したように、追悼演説で語られなかったことにも、私たちはずっと目を向け続けなければならない。野田氏自身が演説で語ったように。
「長く国家の舵取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない運命(さだめ)です。(中略)国の宰相としてあなたが遺した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして問い続けたい」
国葬や追悼演説で「美しく」語られる言葉だけをもって、安倍政治のすべてとすることはできない。死してなお、安倍氏は歴史の法廷に立っている。「安倍政治とは何だったのか」を検証する作業は、国葬や追悼演説で区切りがつくようなものではないのだ。
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