実際、銀座でコメント集めをし、最後に名前を聞くと、それまで気持ちよく答えてくれた人でも途端に表情を曇らせ、「いやいや、それは結構です」と拒否するのだ。どうにかねばっても「名字だけなら」となり、結局、20人近く聞いて、氏名を教えてくれた人はひとりだけという始末だった。
「クレジットはまさしくクレジットなのだ。フルネームがないと記事に使用できない。なぜなら、匿名だと、いくらでもコメントを創作したり修正できる。クレジットは読者との新聞の信用の問題でもあるのだ」
結局、この日、筆者のコメントが使われることはなかった。以降、クレジットはジャーナリズムの原則だと心に刻まれる。この出来事により、後年、日本のメディアに逆輸入のような形で加わった筆者は、ずっとその報道に違和感を抱くことになる。
仮に、ニューヨークタイムズで、日本のメディアが多用する「関係者」や「わかった」というクレジットを使ったらどうなるだろうか?答えは簡単だ。
そもそも使われない、つまり、採用されないのだ。あるいは、なにかの間違いで使われたとしたらどうなるのか?それも答えは同じだ。記者だけではなく、掲載許可を与えた編集責任者も含め、翌年、会社に椅子がなくなるだけだ。
ジャーナリズムにおいて、このクレジットと同じくらい重要なのが「当事者取材の原則」である。あまりに当然すぎて、筆者は、自ら作った「ジャーナリズム五原則」の中に、あえて「当事者取材」を加えていなかったほどだ。
いま日本の報道は危機に瀕している。それはとりもなおさず、ジャーナリズムの原則中の原則である「当事者取材」が著しく疎かにされていることに尽きる。いや、疎かどころではない。無視されているのだ。これはジャーナリズムの崩壊につながる。
次回以降は、評論家の竹田恒泰氏が、まさしくこの陥穽に嵌っていることを報告しながら、日本のジャーナリズムと言論空間の危機を考察してみたい。
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