東亜日報はまた、1940年1月の社説「金剛山保勝に警鐘」で、政策の矛盾を次のように指摘した。
「われわれは霊山金剛に対する開発という言葉を受け入れることはできないと主張してきた。仄聞(そくぶん)するところによると、(総督府殖産局では)七、八ケ所の鉱区を認許し、会社組織によって開鉱し、その利益の寄付を保勝費に充(あ)てると言うが、このような近視眼的開発案はあり得ない。鉱区を認定することはすでに開発であり、また官営でない企業が会社に開発を一任すれば、営利の前に保勝が蹂躙(じゅうりん)されることはあまりに明確なことだ」。
しかし、朝鮮語新聞のこうした批判を、朝鮮総督府はまったく受け入れなかった。前述したように、実際には、総督府殖産局の背後には朝鮮軍があったのである。
総督府への批判は朝鮮人にとどまらず、日本人も同様だった。
1935年10月、東京帝大農学部の内田桂一郎は金剛山で1か月調査し、観光客の急増と鉱業の拡大により、大きな危機に直面していると指摘した。
観光客は1934年が約4万人だったと推定し、地域の面積を基準にすると日本の雲仙国立公園、中部山岳公園の訪問客より多いとする、と。また鉱業についても、金剛山中にも金・重石・水鉛などを蔵してゐる。現在、新豊里・上登峯千佛洞,金剛川上流・外金剛駅付近等諸所に上記の鉱石の採掘選鉱をなしてゐるが、此等鉱山の採屑鉱を四方構わず放置散乱せしむるは重大な風景地の破壊である。又此れに付随して選鉱等の工場を建築し、鉱煙を煙突より吐出し森林岩石を汚物を以て被はせる事を見れば、探訪者をして再び来らざるを誓はしめるであろう、と警告した。
このように、1935年10月時点で金剛山では地下資源の掘削が行われ、自然破壊が進んでいたのである。当時の新聞には、山にこっそり入り、リュックサックに鉱石を詰めて盗む「タングステン泥棒」の記事が散見された。
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