【野生の恋愛】
実は、「ドッキリ」も「サプライズ」も「取扱注意」の危険な「劇薬」なのであり、使い方によっては人の命を奪います。たとえば、心臓の弱っている高齢者に、過激なサプライズを仕掛ければ、ショックで心臓発作を引き起こし、死んでしまうかもしれません。だから「取扱注意」なのです。
そして、そもそも恋愛や性には「タナトス(Thanatos:死と破壊の本能)」が付きまとっており、恋の恍惚や性的エクスタシーを極めようとする営みは一歩間違えれば死の悲劇へと暗転しかねません。
それは何も過激なSMプレイが引き起こす「事故死」のような激しいものとは限りません。それは穏やかで一見平和な淡い恋心からも生じるのです。たとえば、いわゆる「恋わずらい」は、本当にその人の健康状態を悪化させます。ですから、その恋心が純粋なものであればあるほど、「失恋」が恋する者の命を奪うこともあるのです。
タナトスがエロスと共にあることを知っていれば、近松門左衛門などの「心中もの」で描かれる死を、当時の社会制度や社会的規範によってのみ説明しようとする学者や評論家の見解があまりにも浅薄であることに気付くはずです。
時代の外から成り行きを眺めている私たちとは違い、主人公の恋人たちは、そうした社会制度や規範が大前提として支配する時代を生きていたのです。もちろん、彼らは、その状況で、「道ならぬ恋」に落ちればどうなるのか、私たち以上に充分なほど分かっていたはずです。当時は、身分による差別が徹底され、細かい約束事の上に成り立つ主従関係の作法などを物心ついた頃から刷り込まれて来たのです。
そんな状況下で芽生えた恋心には、それがたとえどんなに純粋なものであり、「秘められた」ものであったとしても、既にタナトスの影が色濃く付きまとっています。
どんなに可愛らしく、微笑ましい恋愛であったとしても、恋は「命懸け」です。それには、『ロミオとジュリエット』を例に出すまでもないでしょう。恋愛は否応なく「二人だけの世界(対幻想)」を創り出すものであり、それ故に、既存の社会秩序(共同幻想)に対して意図せざる脅威を与えるのです。これだけでも充分に危ない。
ですから、周囲の皆が微笑みで歓迎してくれる恋愛などというものは希望的幻想に過ぎません。しかし、個人の存在を徹底的に管理しようとする高度情報管理社会が、そうした希望的幻想を意図的に拡散しているものですから、恋愛と結婚の区別さえつかない若者が急増し、社会的に歓迎される恋愛(実質的な一過性の結婚)への傾斜は酷くなる一方です。
恋愛が「自由の子供」であるならば、江戸時代よりは自由になって恋愛を楽しんでいるはずの現代人が、芸能人の「不倫」に本気で目くじらを立てるのは、おかしなことです。しかし、彼らが実は自由でも何でもなく、現代風の社会規範に拘束されており、彼らが恋愛だと思っているものが「一過性の結婚」であるのなら、それも道理にかなっています。「結婚」は社会的な約束事であり、社会秩序を築くための基礎だからです。
ですから、社会秩序から見れば不都合な「野生の恋愛」を始めた二人は、次々に社会の壁に激突するはめになるでしょう。つまり、別にわざわざこっそりと陰謀?をめぐらせなくても、彼らはスリリングな「サプライズ」の連続を体験するはめになるのです。
こうしてみると、意図的にドラマチックなサプライズを計画せざるを得ないといった風潮がはびこるのも、実は、素朴で自然な「野生の恋愛」が弾圧され、「地下」に潜ってしまった結果なのかもしれません。要するにこれは「ごっこ遊び」です。
何ともつまらない世の中になったものです。
(メルマガ『富田隆のお気楽心理学』より一部抜粋)
この記事の著者・富田隆さんのメルマガ
image by: Shutterstock.com