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「列島改造論」を潰したトンチンカンなセンチメンタリズム

ですが、この「改造論」はあっけなく潰されました。この石油ショック+金権批判という周囲の問題に加えて、「改造論」そのものへの批判といいますか、反発も強かったからです。批判は主として2つの点に関してでした。

1つは、改造論で地方経済が拡大するのなら、地方の土地を買っておこうということで、様々なマネーが流れ込んで、地方の主要都市の地価が上昇したことです。これに対して激しい批判が起きました。

もう1つは、産業を地方に拡散することは、公害も同じように拡散して、地方の美しい自然が破壊されて環境が汚染されるので反対というものです。

どう考えても、これはイチャモンとしか言いようがない話でした。地価の上昇については、例えばですが、主要都市の駅前とか商業地区などに投機的なマネーが入ってきただけで、別に盛岡とか富山、釧路といった中核都市の住宅地全体が当時の言い方を借りるのなら「狂乱地価」になっていたわけではありません。

もっと言えば、静かな住宅街となっているシャッター通りに「商業地区としての高額な評価額と担保価値」がくっついていて、その実勢価格との調整ができていない現在と比べますと、地方の地価が上昇したということは、それだけ地方の経済について経済界が明るい見通しを持っていたということです。

にもかかわらず、「土地が高くなるというのは要するに家が買えなくなることだ」「だから庶民には苦痛でしかない」「そんな地下上昇を地方にまで輸出するというのは、都市の住民に取っては申し訳ない」というトンデモ感情論が渦巻いてしまったのでした。

もう1つの公害の拡散懸念というのも、合理的な理由はありません。70年代の公害問題は、50年代から60年代の技術や設備を60年代の規制で運用する中で発生したわけです。ですが、強烈な反省とともに、70年代の中期には環境フレンドリーな生産技術がどんどん実用化していましたし、環境規制も厳しくなっていました。

ですから、経済の地方拡散イコール公害の拡散にはなるはずもなかったのです。ですが、「産業化は公害を伴う」「その公害を自然の美しい地方にも輸出するというのは、都会の人間として申し訳ない、あるいは許せない」というセンチメンタルなロジックが拡散すると、それが世論の大勢になって行ったのでした。

つまり、石油ショックと金権批判という環境だけでなく、「列島改造論」は都市の感情論、それも「地価上昇を輸出して申し訳ない」とか「公害を輸出して申し訳ない」という「すみません感情論」によって潰されたのです。ネーミングも多少問題があり、「改造論」というと、それこそ「コンクリートをバラまく」イメージが伴ったと言うこともあります。ですが、中核にあったのは「罪の意識」、それも一方的でトンチンカンな、センチメンタリズムでした。

その当時を振り返ってみると、この「罪の意識」というのは本当でした。都市の人々は、本当に地方の地価が上がるのは悪いことで、申し訳ないと思っていました。公害についても、「地方は都会の人間が余暇を楽しむために、自然を残しておいて、自分たちのレジャーランドになって欲しいし、それ以外は望まない」などという偽悪的なあるいは利己的な感情はそれほどなかったのです。

70年代の都会人は本当に素朴に「地方に産業が移転すると、公害も拡散してしまうので、それは申し訳ない」と思っていたのです。何という浅はかさであり、何という愚かさでしょう。これでは、悪意のある差別のほうがまだ「まし」というものです。「善意とヒューマニズムに酔い潰れて真実を見失った感情論」が起こした悲喜劇と言っても過言ではありません。

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