大阪万博が本格的に動き始めた2015年12月のある夜
夢洲では1980年代に「テクノポート大阪計画」というバブル期らしい大規模開発が計画されたが、バブル崩壊で幻と消えた。使い道のない「負の遺産」となっていたのを、松井氏らが万博やIR(統合型リゾート)を誘致して維新の政治能力を見せつけた。
しかし、「巨大な展示会を開催し、ハコモノを通じて人やお金を集める手法は完全に時代遅れとなっている。…今回の万博も、開催について日本と争ったのがロシアとアゼルバイジャンだったことを考えれば、万博の立ち位置がよく理解できるだろう」(経済評論家・加谷珪一氏)といった声があるのも事実である。
外国政府にしても、大阪・関西万博への期待が大きいなら、早めに準備を進めたはずだ。要は、熱量が不足しているのではないか。そう、筆者は疑っている。
直近の「ドバイ万博」(2021年10月~22年3月)は成功例とされるが、これには特殊事情があった。「中東・アフリカ地域で初めて開催される万博」を成功させるための熱意と期待感が高かった。会場建設に投じられた約8,000億円は、大阪・関西万博で想定されている建設費の4倍ほどにあたる。
ドバイ万博の余熱が冷めないうちに大阪万博の準備に取りかかるのは参加国にとって容易ではないかもしれない。それでもなお、惹きつける何かが大阪万博にあれば、こんな事態になっていなかったのではないか。
大阪での万博は、2015年12月のある夜から本格的に動きはじめた。橋下徹氏、松井氏、吉村氏が、当時の安倍首相、菅官房長官と会食していた席でのこと。
松井氏は「(万博は)必要ですよね、総理!」と何度も安倍首相の盃に酒を注ぎ、安倍首相を「そうだよね」と、その気にさせた。そこからとんとん拍子にコトが運び、18年11月、大阪が万博の開催地に決定した。橋下氏は松井氏の「政治力」を絶賛し、維新は政策実現力を誇った。
しかし、岸田政権になって、自民と維新の間に距離が生まれると、政府と大阪府市の意思疎通が以前のようにはできなくなってきた。それが万博事業の進捗に影響したかもしれない。吉村知事はよほど切羽詰まった思いで、官邸を訪れたのだろう。
吉村知事の要請を受けた岸田首相が、万博会場建設という舞台に踊り出る花道としたのが、8月1日の会議だった。岸田首相は官邸に吉村知事、横山英幸・大阪市長ら万博関係者を緊急に呼び寄せ、冒頭の挨拶でこう語った。
「万博の準備は、まさに胸突き八丁の状況にあります」「会場建設及び海外パビリオンの建設について楽観できる状況にはありません」
当初は岸田首相も、松井氏が言うように「日本は大丈夫」と悠長にかまえていたのかもしれない。維新や大阪の行政への過大評価もあったかもしれない。しかし、吉村知事の必死の要請を受け、がぜん、首相の力を前面に押し出したい欲求にかられてきたようだ。
「契約締結に向けた取り組みを加速していく必要があります。交通アクセスなど施工環境の改善にも取り組んでいく必要があります。大阪府、大阪市の協力が不可欠な課題であり、よろしくお願いしたい」
「大阪府、大阪市の協力」が足りないと叱咤しているように聞こえる。
「私は内閣総理大臣として万博成功に向けて、政府の先頭に立って取り組む決意であります」
こうなったら、俺が出なければしょうがないと、大見得を切ったようなセリフである。
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