和解が不可能な「敵対状態」ではない米中関係
すべての関係は矛盾である。形式論理では、矛と盾は絶対に相容れない、白か黒かという排他的な関係になってしまうけれども、弁証法論理ではそうではない。すべての物事の内部には相反する要素のせめぎ合いがあり、それこそがむしろ物事の発展をもたらすダイナミックな原動力である。それが弁証法上の「矛盾」である。
毛沢東によるまでもなく、矛盾には諸々の形態があり、その1つの肝要点が「敵対的=非和解的な矛盾」と「非敵対的=和解可能的な矛盾」とを見誤らないことである。その両者の違いは絶対的でなく、時機に応じて入れ替わったりして相対的なので、そこをどう見極めるかは世界理解にとって重要である。
私に言わせると、1972年以降の米中関係は基本的に「非敵対的=和解可能的な矛盾」の関係にあり、恐らく中国の指導部もそのように考えている。ところが、バイデン大統領を筆頭とする米国政界主流はそうではなく、米中関係は基本的に「敵対的=非和解的な矛盾」と考えている。この一番基礎的なところで双方の捉え方が食い違っているので、何をやってもギクシャクしてしまうのである。
米国のその捉え方は、20世紀後半を彩った自国による軍事的・経済的な覇権の衰退に対する恐怖感と、その裏返しの中国が自国を乗り越えて覇権を握ることへの不安感とがミックスした過剰な「中国脅威論」に根ざしている。しかしこの捉え方は間違っている。
第1に、本誌が30年来、繰り返し述べてきたように、15世紀のポルトガルから始まって16世紀のスペイン、17世紀のオランダ、18~19世紀のイギリス、20世紀の米国と変遷してきた海洋超大国による「覇権主義の時代」そのものが終了する。
この約600年のプロセスは、資本主義の勃興と、主として海軍力によって植民地を争奪し合った挙句、これ以上のフロンティアは宇宙にしか存在しないという段階に達し、水野和夫の言う「資本主義の終焉」が始まったという約600年と照応しているので、米国の覇権が衰えた後に新たな世界的覇者が台頭する条件がない。
つまり、米国は最後の覇権国であるのに、そのような自己(と世界との関わりについての)認識に到達することができずにのたうち回っているのである。
実際、中国は米国に代わって覇権を握ろうなどと考えていない。徐剛=立命館大学教授は近著『東亜(運命)共同体』(日本僑報社、23年9月刊)でこう述べている。「中国の人口は米国の4倍もあるため、多くの面で世界最大になるのはやむを得ないとして、米国に取って代わって『世界の警察』もなることには興味を抱いていない」と(P.154)。その通りである。
ちなみに徐教授は江蘇省生まれで、1983年に大阪大学に留学して以来40年に渡り同大学や立命館大学でロボット工学を研究、その途中で「Kyoto Robotics」を起業して社長を務め、米国でも活躍。21年に同社を日立製作所に譲渡し、以後、残りの人生を「東アジア主義者として生きることを決定」し、そのために著したのが本書である。
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