以前に紹介した本にも、次のように書いてある。
子どもが社会的な存在として成熟していくためには、「世界からの押し返し」を経て、現実に合わせて自分を調整するという経験が絶対に必要なのです。
引用文献
『「叱らない」が子どもを苦しめる』藪下 遊・ 高坂 康雅 著 ちくまプリマ─新書 P.52
特に公立学校の使命はそこである。なぜならば、送り出す先の公の社会が、温室ばかりではないからである。学校という世界は、社会であり、家庭とは立場が違う。子どもに適切な「押し返し」を繰り返し繰り返し行う場でもある。
世に出た後も温室続きというなら、学校が温室でも構わない。実際の社会は、温室どころではない。「生き馬の目を抜く」とまではいかないまでも、それなりに頭と体を使って生き抜く必要のある環境である。
企業の側も、困惑している。ちょっと叱られただけで「明日から出社しません」「心が折れた」というかもしれない新人。(もっと酷いと、何と親から連絡が来ることもあるらしい。異常なる過保護ここに極まれり、である。)
これに対し、「辞められたら困るという」という社会的な面と「いい加減にしろ」という本音。
何故に、このような「アマちゃん」が社会に出てしまうのか。
これは、学校教育の責任である。「アマちゃん」を大量生産しているのは、温室化した学校教育そのものである。先に挙げた本にもあるように、叱れない学校にこそ原因がある。
ただ特に温室化しがちで難しいのが、不登校についての対応である。
温室でないと、行けない心と体なのだ。なるほど、そういう面がある子どもも確かにいる。
また学校、学級が滅茶苦茶で、まさに弱肉強食を地でいっているようであれば、行かないという選択肢をとるのもわかる。
しかし、である。
これも前掲書で指摘さていた問題だが、そういうこととは全く関係に、単に子どもの「何となくいきたくない」すら通ってしまうのが現代の学校だという。
前提として「学校は行くものだ」という価値観が共有されていないため、学校側はそれ以上何もできない。「学校に行くべき」時代の強い反動で、学校に行かなくてもいいという価値観が共有されすぎて、学校の温室化が過ぎた。何もできないけれどもっと何かしろ何とかしろと急き立てられ続けているのが多くの温室学校の現状である。
温室なのである。人の手が作った環境が全ての温室においては、育てる側に100%責任がある。野生とは真逆である。
この比率、バランスは考えなおすべきである。
逆にふって野生化してしまい、100%子どもの選択と責任にしてしまうのもおかしい。6歳になった後の4月に小学校に行くかどうかまで選択させる必要はない。そこは、子どもの責任どうこうなどなく、親の義務と責任100%で、行かせるべきである。
やりすぎない程度に、比率の見直しが必要である。








