「叱らない」は、もうやめませんか。“温室”状態の学校教育を受けた子どもたちの悲しい末路

 

このように整理すると、様々な問題について、言うべきか言わぬべきかはっきりする。

忘れ物が多い。これは家庭教育の領分であり、責任である。学校があまり口出しするのは考えものである。(忘れ物をして困るのは学校ではなく、本人でなくてはならない。集金や提出物の催促は忘れ物と区別して行う。)

学校に行かない。やはり家庭教育の領分である。自分の思い通りにならない不自由さがあっても「世界からの押し返し」に耐える必要がある。学校に明らかな問題がない限り、家庭が第一義に責任をもって外の世界へ押し出さねばならない。あるいは、他に適切な学びの場を見つけてやらねばならない。(「一般」の枠に当てはまらない場合の受け皿として、特別支援学校やその他の場の存在意義でもある。)一方、押し出された後は学校の責任下である。

子どもがルールを破ったら、叱って、諭して、守るようにさせるのが学校の領分である。余程常識を外れて度を越していない限り、そのやり方自体に家庭が口をはさむのは適切とはいえない。

では、髪染め禁止の学校で「子どもが髪色を染めている」という状況はどうか。(個人的に髪染めをどう考えるかというのは全く別の問題である。一番多い、禁止か望ましくないとされる学校の場合である。)

学校には、「ルール違反なので色を戻してきなさい」と言い続ける責任がある。家庭には、髪色を戻す責任がある。社会に必要な身だしなみを整える基本姿勢は、家庭の領分である「生活のために必要な習慣」づくりに含まれるからである。

この問題の場合の難しさは、ルール違反に対して直接手を出せない点である。必ず家庭の理解と協力が必要になる。そして家庭の側の個性についての観に髪染めやピアスも入ると思っている場合、そこの観のすり合わせから取り組まねばならない。

そして大人相手はほとんどの場合、これは徒労に終わる。本来は指摘されてもなおルールに従わない時点で完全にアウトである。しかし大人の側がそういう正しい変更手続きをこれまでに踏んだことがない場合が多く、そもそもの理解ができない。結局感情論で終わるのがオチである。(感情論勝負の場合、無理難題を無茶苦茶言う方が勝つ。正当な論理の法の下に存在する公の立場に勝ち目はない。)

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