今まで私たち日本人がこれといった疑問も持たずに信じ込んできた、さまざまな歴史認識。しかしそれは「勝者」によって作られた史観に左右される場合も多々あるようです。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』では著者でジャーナリストの高野孟さんが、「頑迷な徳川政権を薩長が武力で打倒する以外に日本の近代は始まりようがなかった」という捉え方が正しいのか否かを、とある書籍の内容を軸として考察。司馬遼太郎氏らが溺れた「過ち」についても記事中で触れています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:江戸時代に既に育まれていた憲法構想/遠山茂樹や丸山真男はなぜこれほどまでに間違ってしまったのか?《その1》
プロフィール:高野孟(たかの・はじめ)
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。
江戸時代に既に育まれていた憲法構想/遠山茂樹や丸山真男はなぜこれほどまでに間違ってしまったのか?《その1》
本シリーズの第7回は23年10月23日号=No1228(植木枝盛)、第8回は24年1月22日号=No.1241(中江兆民)で、それからだいぶ間が開いてしまった。それは、植木や兆民に代表される明治早々からの鮮烈な民権思想が、無から有が生じるかのようにいきなり噴出することなどあるはずがないとすれば、江戸時代のいかなる思想風土の内にそのような民権思想が胎まれたのかを知りたいと思ったのだけれども、そのヒントになりそうな本や資料に出会うことがなかったからである。
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本シリーズの第3回(No.1218)では上田藩出身の赤松小三郎の「日本最初の民主的な憲法構想」を取り上げ、また第4回(No.1220)では米沢藩士=宇加地新八の「私擬憲法案」を紹介したが、それらも突出的・先駆的な秀才による仕業という感じで、どのような歴史的文脈の中に位置づければいいのかは分からないままだった。が、去る3月、私の問題関心にピッタリすぎるほど嵌る本がついに出現した。関良基=拓殖大学教授の最新作『江戸の憲法構想/日本近代史の“イフ”』(作品社)がそれである。
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実は上述の第3回の記述は、関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新/テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、16年刊)に依っていて、同教授の明治維新観には共感するところ大だったので、先日たまたま立ち寄った日比谷の丸善ジュンク堂書店の棚の隅に差してあった一冊の背に目敏くその名前を見つけることができた。そして書名を見れば、まさに私の求めていたテーマそのものでないか。さらに棚から抜き出して帯を見ると、田中優子=前法政大学総長が写真入りで「日本を、江戸時代からやり直したくなる。いや、やり直さなければならない。強くそう思わせる、驚くべき著書だ」という推薦の言葉が載っている。「これだ!」と思わず声に出して喜んだのだった。
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「もう一つの近代日本」があり得たのではないか?
本書の副題「日本近代史の“イフ”」が言おうとしているのは、《徳川政権が頑迷固陋で封建制に執着するばかりで、薩長がこれを武力で打倒する以外に日本の近代は始まりようがなかった》という、我々の多くが何となく信じ込んでいる歴史認識は、本当に正しいのか?という問いかけである。
戊辰戦争に勝って権力を奪取した薩長藩閥が、まさに「勝てば官軍」でそのように主張するのは当然で、それが伊藤博文から安倍晋三にまで繋がる長州勢を主軸とする近代日本の政治的保守主義の中心的なイデオロギーとなってきた。
ところが面白いことに、薩長藩閥が生み出した天皇制下の大日本帝国と全面的に対決し死屍累々の闘いを繰り広げて来たはずの日本共産党も、徳川政権が「反動勢力」でそれを倒した薩長は「進歩勢力」もしくは「革命勢力」だったという基本的な捉え方で保守派と一致している。戦前の共産党で理論的主流を成した「講座派」の流れを汲む歴史家の井上清、遠山茂樹らがその典型で、さらにその影響下にあった丸山真男や作家の司馬遼太郎も、同じ過ちに溺れている。
実は慶応年間には、赤松小三郎以外にもさまざまな憲法草案が起草され、それらの構想は、後の明治国家とは別の多様な近代日本を生み出す可能性があったことを示していて、明治国家はそれらの中からたまたま選ばれた一つに過ぎなかったのである。
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渋沢栄一の江戸期の憲法構想への評価
「日本資本主義の父」と言われ、この度、福沢諭吉に代わって1万円札の顔ともなる渋沢栄一は、百姓の出身ながら一橋慶喜の家臣に取り立てられ、維新後は大蔵省で働いた後、野に下って数々の事業を興したのだが、その忙しい間に編著『徳川慶喜伝』全8巻を編著している。渋沢によると……、
▼嘉永年間(1848~54)のペリー来航という危急の事態に直面し、老中首座の阿部正弘が広く天下に意見を求めたことが、「公議輿論を重んずる思想の嚆矢」となった。
▼そして開国がなり、欧米を見聞・留学する者も増えると、有識者の間に、日本にも議会制度を導入すべきだという認識が広まった。議会政治論を唱えた先駆者には、旗本の大久保忠寛(一翁)、越前藩政治顧問の横井小楠〔しょうなん〕、上田藩の赤松小三郎らがいた。
▼これら各方面の議会政治論の流れが、土佐藩の「政権奉還」構想につながった。これは時勢の気運が盛り上がってきた中での必然的な現象で、単なる欧州思想の模倣ではない。
渋沢は特に、赤松が徳川慶喜将軍、越前の松平春嶽、薩摩の島津久光に提出した「日本最初の民主的な憲法構想」と関が呼ぶ建白書を江戸期の「公議政体希求の思想」のクライマックスをなすものとして高く評価し、その内容を詳しく紹介している。松平と島津は、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城と共に「幕末の四賢侯」と呼ばれ、前将軍が始めた第2次長州征伐の失敗の穏便な後始末を通じての内戦勃発回避と、公武合体論による議会政治の実現を目指していた。
島津と山内は、赤松案を大名たちに都合のいいように薄めた修正案を作り、「薩土盟約」を結んで実現しようとしたものの、薩摩の内部で西郷隆盛や大久保利通らの「薩長同盟」による武力討幕論が力を増したため島津が日和見して盟約を反故にし、それでやむなく山内が単独で「大政奉還」を徳川慶喜に説いたということになっているが、この過程で、本来は「維新」の本流であったはずの公選議会開設と表裏ワンセットの公武合体論が、幕府の一方的屈服による「大政奉還」すなわち「王政復古」へとすり替わり、挙句の果てのやらずもがなの内戦による武力討幕へと流れ流れてしまった。
幕府内部や雄藩では盛んだった立憲政体論・議会開設案は長州や薩摩ではほとんど全く聞かれることがなかった。両藩の中・下級武士を中心とする志士たちは徳川体制の後にどんな国家・社会を築くのかに関心はなく、ただ尊皇攘夷路線の邪魔をする輩を暗殺するのに忙しかった。
日本最初の民主的憲法構想の起草者である赤松は、それだけでなく英国の騎兵術・歩兵術などを翻訳・紹介した洋式兵学の第一人者であり、その知識を評価されて薩摩藩の軍事教官をも務めていたというのに、公武合体論を説く「幕府の間者」であるという理由で薩摩のテロリスト=中村半次郎に斬殺されてしまう。維新の前からすでに「日本の近代」は脱線していたことを象徴する出来事である。
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尾佐竹猛「明治文化研究会」の憲政史研究
渋沢の趣旨を引き継いで大正期に本格的な幕末・明治の憲法構想を研究したのは、裁判官の尾佐竹猛で、大正14年暮に『維新前後に於ける立憲思想』を出版した。彼は大審院判事にまで上り詰めた司法人ではあるが、大正デモクラシーの旗手=吉野作造や反骨のジャーナリスト=宮武外骨などと共に「明治文化研究会」を組織し、幕末以降の日本がどのように立憲政体論や議会開設案を受容し熟成させて来たかの歴史を跡づけた。
それによると、文政10(1827)年にドイツ人=ヒュプネルの『一般地理学』の蘭語訳をさらに抄訳した『輿地誌略』が出版されたのを手始めに、欧米諸国の議会の仕組みなどを紹介した書物が、最初は主として中国で出版された漢語訳や研究書をそのまま漢文読みする形で、やがて慶応年間(1865~)に入るとようやく福沢諭吉の『西洋事情』、西周の『万国公法』、津田真道の『泰西国法論』など欧米を実際に視察・留学した日本人自身の筆になる欧米の政治体制の紹介・分析が、広く読まれるようになっていた。
吉野作造が初代会長、その死後には尾佐竹が2代目会長を務めた明治文化研究会は、幕末から明治の自由民権運動・議会開設運動にかけての歴史を精力的に研究し、その中で歴史家の大久保利謙〔としあき〕や、憲法学者で戦後日本国憲法の骨格を作った鈴木安蔵などの人材を多く育てた。大久保利謙は利通の孫でありながら自ら「佐幕派」を名乗り、「明治初年の西洋学術、思想、文化の日本への植え付けに、旧幕臣ないし幕府系の洋学者たちの功績がきわめて大きい。……政治的には薩長討幕派が勝ったが、文化的には幕末幕府の方に分がある」と書いている。
そうしてみると、佐幕派の立憲論・議会開設案を引き継いだ明治自由民権運動の中での溢れかえるような憲法論議が、大正デモクラシーを中継点に戦後の民主憲法の成立にまでつながってきたという1つの大きな脈絡があることが分かる。
遠山茂樹『明治維新』が振り撒いた誤解
このような佐幕派の立憲論・議会開設案の広がりを、野蛮な武力討幕派が無視し、あるいは扼殺しようとしたのは当然とも言えるが、おかしなことに、戦後の歴史学界を席巻した講座派系≒東大系のマルクス主義史学もまたそれを完全に無視している。代表格は、遠山茂樹『明治維新』(岩波書店、1951年)、井上清『日本現代史1・明治維新』(東大出版会、1951年)、丸山眞男『日本政治思想史研究』(東大出版会、1952年)などで、実際、私などもこれらを基礎教養としつつ日本近現代史を学び始めたものだった。
が、関良基に言わせれば、遠山は佐幕派の議会制度論を「封建的秩序を再建し温存していくための方便」であり、そこには「近代社会の建設に向かうベクトル」は何ら含まれていないと切って捨ててしまっている。ということは、薩長テロリスト集団と彼らが産んだ「大日本帝国主義」の方に「近代社会の建設に向かうベクトル」があったという判断になるのだろうが、遠山はじめいわゆる左派がそういう迷路に嵌まり込んでいく思考回路のねじれは、丸山眞男を吟味するともっとよく見えてくるかもしれない。〔次号に続く〕
(メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2024年6月3日号より一部抜粋・文中敬称略。ご興味をお持ちの方はご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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