福沢諭吉とは正反対。中江兆民が生涯を通して貫いた「下から目線」

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福沢諭吉と並んで「明治の2大思想家」とされ、ルソーを日本に紹介したこともあり「東洋のルソー」とも称される中江兆民。そんな兆民が、諭吉らを激しく非難していたことをご存知でしょうか。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』では著者でジャーナリストの高野さんが、兆民の思想と彼が諭吉を含む開戦論者をどう評価していたかを紹介。さらに兆民と諭吉の「決定的な思想の違い」を解説しています。

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※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2024年1月22日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

中江兆民という「下からの民主主義の伝統」の原典

本シリーズの前回は昨年10月23日号(No.1229)で、明治初期の民権運動の先頭を走った天才的な扇動家=植木枝盛について述べた。彼に最も深い思想的影響を与えたのは10歳上の同郷の先輩=中江兆民で、兆民を通じてルソーの「民約論」の真髄に触れることなしには植木の壮大な「東洋大日本国国憲案」は生まれることがなかっただろう。そのことを含め、兆民こそが日本の民権思想の父である。

どこまで行っても「下からの革命家」

彼と並んで明治の2大思想家と呼ばれ対比される福沢諭吉のことを、「世間では、西欧文明を深く理解している自由主義的な啓蒙家であり、『民主の徒』『洋学紳士君』の代表であるかのようにいう」(色川大吉『自由民権』、岩波新書)けれども、福沢の言う近代化はあくまで「上からの近代化」であり、そうであるがゆえに、割と簡単に「上からの国権主義」に転化する。「明治初年、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』といい、アジア、アフリカの弱小国の人権も欧米強大国の人権もまったく同等であると主張した福沢は、1880年代にはもはや“存在”していない」(色川)。

1880年代に何が起きたかと言えば、1881年の「明治14年の政変」で伊藤博文・井上馨ら長州閥が主導して大隈重信を追放して「薩長藩閥体制」を確立。そして翌82年のソウルにおける「壬午の乱」で親日派だった閔氏政権と日本公使館が民族派兵士に襲われた事件をバネとして一気に大陸侵攻を目指す軍備拡張、「富国強兵」路線へとのめり込んで行ったことである。この時期に、福沢は「民権論は今日、到底無益に属して弁論を費やすに足らず」「眼を海外に転じて国権を振起の方略なかる可らず。吾輩畢生の目的は唯この一点に在るのみ」(81年10月「時事小論」)と、民権論への決別と国権論への乗り移りを宣言し、それがやがて85年3月の有名な「脱亜論」の吐露へと繋がっていく。この福沢の変節の軌跡についてはまた詳しく論じることがあるだろう。

これに対して中江兆民はどこまで行っても「下からの革命家」であり、揺るぐことがない。本シリーズの第6回で、日本の近代史を「上からの改革ずくめの歴史」として描くのは間違っていて、その時々に必ず「下からの自前の民主主義の伝統」が歴史の表層を突き上げてきたことを正しく視野に入れなければならないという坂野潤治の観点を紹介したが、まさにその隠された伝統の原点が中江兆民だった。

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