安倍政治を招いたクーデター「明治維新」が、日本にもたらした“不幸”

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日本を近代国家たらしめたとされる明治維新。しかし皮肉なことに、維新を主導した薩長が新政府構想のたたき台としたのは、彼らが暗殺した幕臣による日本初の「民主的憲法案」との見方もあるようです。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』ではジャーナリストの高野孟さんが、幕末の政治思想家・赤松小三郎が描き提出した建白書の内容を紹介。その合理性を高く評価するとともに、赤松の構想を忌避して明治維新という武力クーデターに走った薩長両藩を強く批判しています。

※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2023年8月7日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

公武合体による民選議会開設の構想こそ明治維新の本筋だったのでは?「民権思想」を遡る

前回(No.1214「江戸中期の『忘れられた思想家』安藤昌益」)で、江戸期のどのような思考実験や行動体験の堆積が明治期早々のあの自由民権運動の爆(はじ)けるような展開を生んだのかの脈絡はよく分からないので、脈絡の問題は抜きにして、カール・マルクスより115年前に生まれ125年前に死んだ江戸中期の突出的な共産主義/平和主義/エコロジー/農本主義の思想家である安藤昌益のことを取り上げた。

その狙いは、確かに彼自身は突然変異的にさえ見える異形の知的多面体であるに違いないけれども、少なくともそのどこか一面に拮抗したりそれを継承したりした思想や行動は、我々の偏見や蒙昧のせいで視野に入っていないだけで、すでにかなり豊かで柔軟な江戸中・後期のプレ近代とも言うべき江戸文明社会には色々な形で出現していたのではないか――だから昌益はむしろそうした江戸期の知的豊穣の象徴だったのかもしれないということを問題として提起しておきたかったことにある。

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