安倍政治を招いたクーデター「明治維新」が、日本にもたらした“不幸”

 

消し去らなければならなかった赤松小三郎

安藤昌益より126年後に生まれ105年後、つまり1867(慶応3)年の9月、薩長による王政復古クーデターの僅か3カ月前にテロリスト=中村半次郎によって37歳にして斬殺された赤松小三郎という幕臣政治家がいる。彼は、安藤とは違って、維新をめぐる政治的激動の直接当事者であり、しかもその数多くの当事者たちのワン・オブ・ゼムというのではなく、公武合体による平和的な政体転換と民選議会の創設を軸とした立憲主義国家の樹立を構想し提言しその実現間際まで工作を進めていたキーマンに他ならなかった。

赤松の死を転機として、薩摩=島津久光と土佐=山内容堂による公武合体を目指した薩土盟約が破棄され、坂本龍馬≒グラバー商会≒英帝国主義が画策した薩長同盟による武力倒幕論が一気に主流に躍り出ることになった。その結果が、薩長藩閥によるテロリスト国家=明治政府の樹立に他ならない。従って、安藤は(前号に述べたような事情で)単に「忘れ去られた思想家」であったのに対して、赤松は薩長藩閥にとって「消し去らなければならなかった政治家」なのである。

関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新/テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、16年刊)によれば、信州・上田の出身で若くして江戸に出て数学、兵学を学び、また勝海舟の従者となって長崎海軍伝習所に赴き、英語、航海術、測量学、砲学などを修めた。彼の11年間ほどの国内遊学をバックアップしたのは、上田城主にして江戸幕府の開明派の次席老中でもあった松平忠固だったが、その忠固が安政の大獄の渦中で失脚し、やがて怪死したため、赤松は上田に戻ってしばらく雌伏の年月を過ごす。

再び上京の機会を得たのは1864(元治元)年で、それから殺されるまでの3年間に、横浜在住の英国騎兵士官に英語と騎兵術を学び、『英国歩兵練法』を翻訳・出版し、江戸の下曽根兵学塾、薩摩藩京都邸の訓練所、会津藩の洋学校などの教官・顧問として軍制の近代化を指導した。

このように、薩長側からも幕府側からも高い評価を受け、全国的な有名人となった赤松は、軍制改革だけでなくさらに公武合体による挙国一致の政体変革の構想を描き、1867(慶応3)年5月に将軍徳川慶喜、越前の松平春嶽、薩摩の島津久光の3カ所にほぼ同文の建白書として提出した。

松平と島津は、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城と共に「幕末の四賢侯」と呼ばれ、前将軍が始めた第2次長州征伐の失敗の穏便な後始末を通じての内戦勃回避と、公武合体論による議会政治の実現を目指していたが、関義基の上掲書が述べているところでは「小三郎の建白書は慶應3年5月の段階で〔提出先の3カ所に留まらず〕かなり広範に流布され、新政府構想のたたき台として機能していた可能性が高い」という。

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